大事故で胸下不随に…生涯貫いたレスラー魂

その後、上田は80年代末にセミリタイヤ。恵美子夫人と熊本でスナックを営んでいたが、90年代半ばにインディ団体で再びプロレス活動を再開。そこで悲劇が待っていた。

96年3月、巡業で仙台から東京に営業の宣伝カーに乗って戻る途中、高速道路で大手運送会社の10トントラックに追突される事故に遭ってしまう。同乗者である運転手はほぼ即死。上田は幸い一命はとりとめたものの、頚椎(けいつい)損傷の重傷を負い、胸下不随となってしまう。

そこからが地獄の日々だった。食事や排泄も満足にできず、ひたすら激痛に耐えるだけの生活。あの我慢強い上田が何度も自殺を考えるのだから、想像を絶する激痛なのだろう。しかし、動かない体は自殺することすら許されなかった。

それでも恵美子夫人の昼夜を問わぬ懸命の介護と、上田の不屈の闘志によるリハビリにより、約5年の入院生活を経て退院。ほぼ寝たきりの車椅子生活ながら、人前に出るときは必ず髪を金に染め、施設の慰問や同じような障害を持つ人を励ますためのボランティア講演を続け、生涯上田馬之助を演じきった。

闘病中、講演先に出向いた際、上田は一人の老人にこう罵られたことがあるという。

「悪いことばかりしていたから、こんな体になったんだ!」

上田は静かに目を閉じ、何も語らなかった。重度の身体障害者には酷な言葉だが、それは上田がヒールとして観客を本気にさせていた証明だった。帰宅後、上田は妻にだけは「プロレスを真剣に見てもらって、ありがたい」と語ったという。

2011年12月21日、上田馬之助死去。享年71。

「上田さんが亡くなった年に、東日本大震災があったんですね。その4月にはキャンディーズのスーちゃん(田中好子さん)が亡くなって、告別式で『あの世でも、皆様のお力になりたい』という生前のメッセージが流されましたけど、上田さんもきっと向こうで福祉活動を続けている。そんな気がするんですよね」

筆者は上田が亡くなる1年前、大分県の自宅を訪ね、最後のロングインタビューをさせてもらっている。取材が終わったあと記念撮影を頼むと、上田はいつものように悪役の顔を作ったが、恵美子夫人が「裕司さん(上田の本名)、もうその顔はいいでしょう」と言うと、柔和な笑顔でカメラに収まってくれた。この顔が、人間・上田裕司の素顔だったのだろう。

生涯ヒールを貫いた真のプロフェッショナルレスラー、上田馬之助。昭和のプロレスを思い出すたびに、金狼の切ないブルースが今も聴こえてくる。

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。