1981年(昭和56年)はプロレス界にとって激動の1年だった。
4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会で初代タイガーマスクがデビュー。四次元殺法と呼ばれたアクロバチックな闘いで、小・中学生を中心とした少年ファンのあいだで人気が爆発。さらに5月8日、新日本川崎大会に全日本のトップ外国人、アブドーラ・ザ・ブッチャーが突如登場。ここから新日本、全日本両団体による選手引き抜き合戦が勃発した。
まさに新日本、全日本がしのぎを削る、プロレスブーム絶頂期の始まり。そんな熱狂がマット界を覆うなか、静かに消えていった団体がある。“金網の鬼”ラッシャー木村をエースに据えた、国際プロレスだ。
国際プロレスは1967年に旗揚げ。ジャイアント馬場やアントニオ猪木のような大スターがいないなか、常に資金難と言われながら、さまざまなアイデアと所属選手の奮闘で生き抜いてきたが、1981年8月9日、北海道・羅臼での大会を最後に15年の歴史に幕を閉じた。
『東京12チャンネル時代の国際プロレス』(辰巳出版)の著者であり、国際プロレスのDVDボックス監修なども務めたプロレスライターの流智美は、国際の経営難が表面化してきたのは、崩壊する1年数か月前だったと語る。
「僕は当時、国際の営業担当Nさんと毎日のように話していたんです。そのなかで“危ないな”と思ったのは、80年5月ですね。それまでは国際の経営危機を彼の口から聞いたことは一度もなかったんですけど、『仮払いが下りない』と初めて聞いて、“これはいよいよ危ないんじゃないか”と感じたんです」
国際プロレスの命運が尽きたテレビ放送の打ち切り
昭和のプロレス団体経営の浮沈は、テレビ放送と極めて深い関係でリンクしている。各団体は、それぞれ興行会社であると同時にテレビ局のコンテンツ制作会社でもあり、放映権料は団体経営の命綱だ。
国際プロレスはもともと68年1月からTBSで放送されていたが、視聴率が振るわず74年3月をもって打ち切り。その窮地を東京12チャンネル(現テレビ東京)が救うかたちで、74年9月から新たにレギュラー放送が再開された。
月曜夜8時の『国際プロレスアワー』は、平均視聴率7〜8%ほどと、当時の民放各局のなかで“番外地”と揶揄された12チャンネル内では健闘していたが、その数値も徐々に下降。80年に入ると5%台を記録することが増えていった。
そして、80年10月に放送時間帯が、月曜夜8時から土曜夜8時に変更。これが国際の運命を決めることとなる。
「当時の土曜夜8時といえば、『8時だョ!全員集合』をはじめとした強力な裏番組が揃った超激戦区。もともと全日本が放送していたものの苦戦の末、79年3月に撤退した時間帯だったので、そこに突っ込んでくるとは強気だなと思いました。
あの頃、12チャンネルはパ・リーグの野球中継を多く流していたので、“これで視聴率が悪かったら、4月からは野球中継に取って代わられて、打ち切られる前兆なのか”とも思ったんですけど、案の定、視聴率は平均わずか2%しか取れず、打ち切りになってしまったんです」
当時のプロレス団体にとって、テレビ放送がなくなるのは死活問題。この放送打ち切りは、国際プロレス自体の命運が尽きたことを意味していた。
「国際の吉原功(よしはらいさお)社長は、打ち切りが決まったあとも『テレビなんかなくてもいい。これからは、テレビに振り回されない経営ができる』と強気な発言をしていましたけど、そんなわけないんです。年間9000万円の放映権料が断たれるわけですから、それがなくなっても大丈夫というのは、強がり以外の何物でもない」
この時点で2億5000万円もの借金を抱えていた国際プロレス。放映権料が断たれては、もはや存続していく体力は残っていなかった。
国際がこれだけの負債を抱えてしまった要因を、流は「外国人レスラー招聘による経費の圧迫」をいちばんに挙げる。
「70年代後半から80年代初頭にかけて、新日本と全日本が張り合って、あまりにも豪華な外国人レスラーを呼ぶから国際が貧弱に見えましたけど、今思えば平均点以上のレスラーが来ていましたよ。
国際の経営規模から考えたら、そこまでたくさん外国人を呼ばなくてもよかったんだけど、新日本や全日本に負けじと頑張って呼んだ結果、借金がかさんだんです。外国人の経費って、ものすごいものがありましたから。日本人よりギャラがはるかに高かったし、海外からの往復の飛行機代や滞在費もかかる。
全日本だって、豪華外国人を呼びすぎて税務署に源泉徴収分を払えなかったことで、日本テレビが経営に介入して、馬場さんは社長から会長に棚上げされたくらいですからね。それくらい、当時のプロレス団体にとって、外国人選手を呼ぶことは最も大きな経費だったんです」
結局、国際プロレスは、新日本と全日本の過当競争に巻き込まれるかたちで、身の丈以上の経営をしたことで自滅してしまったのだ。