過酷な部屋住み生活の始まり
それからしばらく就職の面接っぽいやりとりがあって、児玉がヒロシに言った。
「しばらく部屋住みってことで、うちで預かってやれ」
「わかりました」とうなずいたヒロシに、「おお」とうなずき返すと、児玉が俺を見た。
「部屋住み……アンダースタンド?」
俺は「わかります」と答えた。
部屋住みというのは、英語で言えば「レジデント」だ。組の組事務所で寝起きして組長の世話係みたいなことをしながらヤクザのABC……いや、イロハを学んでいくことになっている。基本的に「シノギ」と呼ばれる資金を稼ぐ活動ができないので、組長をはじめ上の者から小遣いをもらってやりくりしていかなければならず、よほどのことがなければ貧乏は避けて通れない。
「言っとくがなあ」児玉が言った。
「俺んとこは、部屋住みとは言ってもよそとはワケが違うぞ……ヒロシ、説明してやれ」
「はい」ヒロシが答えた。
「簡単に言うと、うちはサラリー制だ」
嬉しい誤算だった。思わず顔がニヤついた俺を、ヒロシは「バカ、まだ喜ぶのは早いんだよ」とたしなめると英語で続けた。
「昔からヘヤズミのいちばんの仕事は事務所の電話番だったわけだが、いまは知ってのとおり携帯電話で話は全部パーソン・トゥ・パーソンで済む。だからもう電話番は必要ない。掃除もルンバがやるし、洗濯もすすぎから乾燥まで全部洗濯機任せだ。うちの親分は健康志向で早寝早起きだから、夜遊びもしない。だからクルマで深夜の送り迎えなんてのもない。したがってヘヤズミの仕事はそれほど多くない。ということはどういうことだかわかるだろう」
「たぶん……」
「サラリー制ってのは一見、素晴らしいシステムに思えるかもしれないが、要するに“小遣い”より少ねえぞってことだ。だから、少ねえぶん、自分の食い扶持(ぶち)は自分で稼げってことだ。それがいわゆる“シノギ”ってヤツだ……ここまではわかったか」
「わかります」
「ヤクザっていうのは、どんなにデカい組に入っていようと、基本は個人営業だ。それぞれが自分の才覚でシノいでいかなきゃならない。組というのは、いわば個人事業主の集まりなんだよ。てめえの食い扶持はてめえでなんとかしろってことなんだ」
ヒロシによる英語での説明が終わると、周囲の組員の間から「おおお」という歓声と拍手が起こった。
「シノギのやり方は誰かが教えてくれるのですか」
俺の質問に答えかけたヒロシを手で制して組長が言った。
「ヒロシ、おまえはなにかと忙しい身だ。こんな新入り相手に時間割(さ)いてる暇なんかねえだろう」
「いや、別に……」
「柳田(やなぎだ)のとっつぁんに面倒見させろや」
その頃、ヒロシは組の中で断トツの稼ぎ頭として急速に力をつけていた。組長にしてみればいわば金の卵を生む大事なニワトリだ。そのニワトリに余計な手間を取らせて生産性を落としたくないというのが組長の本音だったのだ。
親分の命令は絶対だ。
「はい」と頭を下げたヒロシが、なにか言いたげな目でチラリと俺のほうを見た。
(そのうち俺が面倒見てやるから心配するな……)
俺にはヒロシがそんなことを言ったように思えた。
部屋住みとなって1週間ほどしたある日、姐(あね)さん(組長の妻)が飼っているチワワとマルチーズの午後の散歩から帰ってくると、ちょうど玄関の脇の空き地に見知らぬジイサンが自転車を停めようとしているところだった。
油切れでサビだらけの買い物自転車、いわゆる「ママチャリ」にまたがり、白髪頭に野球帽、よれよれのジャージの上下に年季の入ったジャンパーを羽織ったその姿は、とても組の関係者には見えない。
だが、「よっこらしょ」と自転車を降り、俺を一瞥(いちべつ)したジイサンの目に一瞬、ギラギラとした獰猛(どうもう)な光が宿っているのがわかった。
(ヤクザだ……)
自転車を停めたジイサンに向かって、2匹の犬が狂ったように吠(ほ)えたて、4本の脚を勢いよく動かしてコンクリートの床をガリガリと掻(か)いた。
「おー、よしよし」
ジイサンが手慣れた様子で2匹の犬を撫で、自分の顔をベロベロと舐めさせ始めた。これだけ姐さんの犬がなついているところを見ると、うちの組とは相当つながりが深い人物であることが想像できた。
「ご苦労さんです」と声をかけた俺に、ジジイが「よお」と片手を上げて言った。
「グン、モーニン」
どうやら「おはよう」と言っているつもりらしかったが、時計の針はとっくに昼の2時を回っていた。
――それが俺と柳田のとっつぁんとの最初の出会いだった。
二言三言、何人かの組員と言葉を交わすと、とっつぁんはあらためて俺を見た。さっき、犬の散歩から帰ってきたときに垣間見(かいまみ)えた、猛獣を思わせる鋭い目が二つ並んでいた。柳田のとっつぁん、こと、柳田正雄(まさお) 。同じ部屋住みの連中の話によると、かつては「早撃ちのマサ」として新宿では知る人ぞ知るヤクザだったらしい。
昔は名うてのヒットマンだったと思われる柳田のとっつぁんが一つ咳払(せきばら)いするとおもむろに口を開いた。
「おまえ……」
「はい」
「名前なんだっけか?」
(いや、さっき言ったけど……)
と思いながら俺はもう一度名を名乗った。
「トミーと申します」
「……とみい、か」
とっつぁんが言うと、なんだか俺の名前じゃないみたいだった。発音がヘンなのだ。トミーが「TOMMY」じゃなくて、「鳥居」とか「飛び火」のようなどこか田舎臭いイントネーションなのだ。
「と→み→い→」じゃなくて「TO↗MMY↘(tɔ'mi)」ですと訂正しようとしたが、とっつぁんには無理そうなのでやめた。あとで知ったことだが、これはとっつぁんが青森県の出身だったことも影響していたらしい。
それ以来、組長以下、組員全員が俺のことを「ト↗ミー↘」ではなく「と→み→い→」と呼ぶようになった。やがてそれはさらに広まり、そのうち俺の名前が売れ出して実話系週刊誌やスポーツ紙などで取り上げられる際にも「富井」が使われるようになり、ファミリーネームのケントも「健斗」と記されるようになった。
これじゃ本来の苗字と名前が逆転してしまっているわけだが、細かいことは気にしないことにした。これが日本名である「富井健斗」(のちに拳人と改名)を俺が名乗るようになった経緯である。
話を戻そう。
俺の教育係となった柳田のとっつぁんは、組長の児玉とは同郷で、かつては轟雷組の上部組織である侠任会(きょうにんかい)系で同じ組に所属する兄弟分だった。
もともとヤクザとして才覚のある児玉はどんどん出世して、自分の組を持つことになった。それに、もれなく付いてきたのが柳田のとっつぁんというわけで、組の中では表向きは「おじき」と呼ばれているが、実際のところ「早撃ちのマサ」というニックネームからも窺(うかが)い知れるように、昭和の古いタイプのヤクザであるとっつぁんは、時代についていけないため「相談役」という名目で組に置いてもらっているらしい。「らしい」というのは、部屋住みの連中から聞いた噂なので確かではないからだ。