「落書無用伝説」の誕生
ちょうど組長夫婦がグアムに旅行中ということもあり、柳田のとっつぁんの提案で、その日、俺たちは飲みに行くことになった。
飲む前にひとっ風呂浴びるというとっつぁんの流儀に従って、俺たちはぞろぞろと歩いて大久保のほうにある一軒の銭湯に行った。都内の銭湯は刺青があると入場できないところがほとんどなのだが、そこの銭湯は刺青オッケーだということでわざわざそこまで足を運んだのだ。
刑務所や銭湯の入浴シーンは映画で何度か見たことがあるが、実際に入るのは初めてだった。ご存知のとおり、アメリカではそもそも人前で素っ裸になる習慣がないだけに抵抗はあったが、そんなことは言っていられない。
柳田のとっつぁんに続いて先輩たちが、チンポコをぶらぶらさせながら堂々と洗い場に向かうのを横目に、俺はしばらくもじもじしていたが、思い切ってその場で服を脱ぎ捨てると勢いよく洗い場のドアを開けた。
湯気の向こうの洗い場には、うちの組の者はもちろん、さまざまな意匠の刺青が施された背中がずらりと並んでいた。それを見たときは、俺も形だけでも刺青を入れておいてよかったと心から思った。
風呂屋に着く前に先輩の一人から教えられていたように、俺はタオルを手に柳田のとっつぁんの背中に回った。
「おじき、お背中流させていただきます」
「おう、頼む」
皮膚がたるんで、刺青の獅子がチャウチャウみたいになってしまっている柳田のとっつぁんの背中をタオルでゴシゴシこすっていると、突然、俺の後ろで先輩の一人の笑い声が弾けた。
――なんじゃ、その刺青!
その声に残りの二人も俺の背中に回り、
――おめえ、どしたんだよ、これ!
――誰に書かれたんだよ。おめえの背中は板塀か。
彼らの笑い声に引き寄せられるようにして、周りにほかの客たちがワラワラと集まってきて、俺の背中を指差して口々に「ヤベー」とか「ヤバいよ」などと言いながらゲラゲラ笑っている。
たしか「ヤバい」というのは褒め言葉のはずだ。だが、その雰囲気はけっして褒めている感じではなかった。日本人にウケるものと思い込んでいた俺は、いったいどういうことなのか意味がわからず、ぽかんと彼らのほうを見た。
ミスター・スズキが言っていた「日本でウケる」というのは、そういう意味の「ウケる」だったのか――。
わかったときは、ときすでに遅しというヤツだ。
恥ずかしさと屈辱で、タオルを持つ手がブルブルと震えた。
そのときだった。
突然、柳田のとっつぁんがすっくと立ち上がると、くるりと後ろを振り返った。俺の目の前で、どアップになったとっつぁんの長く垂れ下がった金玉袋がゆらゆらと揺れていた。
「てめえら、人の彫り物を嘲笑(わら)うんじゃねえ!」
とっつぁんのドスの利いた声が浴場に響き渡り、次の瞬間、あたりが水を打ったようにシーンと静まり返った。女湯のほうから「コーン」という桶おけが落ちる乾いた音がかすかに聞こえていた。
あっけにとられたように、その場に棒立ちになってとっつぁんのほうを見ている10人ほどの裸の男たちに向かってとっつぁんが、押し殺したような声で静かに言った。
「……人にはなあ、そいつにしかわからねえ胸に秘めた想いや覚悟ってものがあるんだ。それを一生忘れねえように身体に刻み込む。それが本当の刺青ってもんだ……」
そう言うと柳田のとっつぁんは、俺の肩のあたりをポンポンと叩いて言葉を続けた。
「こいつの……こいつの……」
そのとき初めて俺の背中の文字を見たのだろう。とっつぁんの鼻の穴から一瞬、「プフッ」と空気が漏れる音が聞こえたが、とっつぁんはなにごともなかったように続ける。
「……こいつの背中に刻まれた言葉の意味がおまえらにわかるか。落書きっていうのはな、おまえらみたいなボンクラがカッコつけて入れてる刺青のことなんだよ。これ見よがしに派手な倶利伽羅紋紋(くりからもんもん)背負ってよ、人に見せびらかして虚勢張ってるうちは二流、三流だ。自分はそんな薄っぺらなヤクザにはならねえ。刺青なんかに頼らずとも、この腕一本で勝負する……その覚悟がこの落書無用って言葉なんだよ……。そうだろ、とみい!」
そのときはまだ、とっつぁんの言ってることの半分くらいしかわからなかったが、自分の名前を呼ばれて、俺は思わず「はい!」と力強く返事していた。
いわゆる俺の「落書無用伝説」が誕生した瞬間だった――。