新日本vsUWFの緊張感は疑心暗鬼から生まれた

新日本のレスラーにとってUWF勢は、団体から飛び出していった“裏切り者”。一方、UWF勢にとっては、猪木こそが(合流するという)約束を反故(ほご)にした“裏切り者”だった。

このねじれた対立構造が私情のもつれを生み、新日本とUWF、そして猪木と前田は、これまでのプロレスの抗争にはない、緊張関係になっていった。

そんなアンタッチャブルな関係を、最も如実に表していたのは、多くのファンが望んだ、猪木と前田のシングルマッチが実現しなかったことだ。

これまで猪木は、ストロング小林、大木金太郎、ラッシャー木村、長州力と、他団体および、敵対する軍団のトップである日本人レスラーたちと、必ずシングルマッチで対戦し、勝利してきた。

しかし前田日明だけは、タッグマッチでは対戦しても、頑なにシングルでは闘おうとしなかったのだ。

その理由をターザン山本はこう語る。

「プロレスは相手の技を受けて成り立つエンターテインメントであるから、“信頼関係”が必要不可欠なんですよ。でも、UWF設立の経緯などから、猪木さんの中で前田を信用しきれなかった。つまり前田の中に、どこか1%裏切りの可能性を見たんです。もちろん前田もプロレスラーだから、プロレスを壊すようなことは普通だったらしない。でも、猪木さん自身、もしジャイアント馬場さんとのシングルが実現していたら、何かを仕掛けていたはずなんですよね。だからこそ前田を警戒した。猪木さんは、前田の中にかつての自分を見たんですよ」

しかし皮肉なことに、猪木が対戦を拒否したことで、“危険な男”としての前田幻想は、巨大化していく。そして猪木に代わって、vs 前田日明の矢面(やおもて)に立ったのが、当時の新日本ナンバーツーである藤波辰巳だった。

藤波は当時のことをこう語る。

「前田にとって出戻りは屈辱的だっただろうし、UWFができた経緯からして、いろんな思いがあったんでしょう。でも、僕自身は前田に対して何も含むものはないし、こっちも男を張ってる商売だから、逃げるわけにはいかないしね。当時の前田は怖い者知らずだから、もちろんあの重い蹴りにしても警戒はしてましたよ。ただ、俺はプロレス入りする前に格闘技経験がなかったから、プロレスで鍛えたこの身体を信じて、本能で闘えたんだよね。だから、結果的に皆さんが納得いくような試合になったんだと思いますよ」

86年6月12日、大阪城ホールで行なわれた藤波vs前田の一戦は、藤波が真正面から前田の攻撃を受けることで、それまで反発しあった新日本とUWFがついに融合したかのような名勝負となり、試合結果こそ両者KOのドローだったものの、この時の「プロレス大賞」で、年間最高試合賞に選ばれる。

そして試合後、前田は「無人島かと思っていたところに仲間がいた。これから一緒に国を作っていけそうな期待感がある」という希望と喜びに溢れたコメントを残したのだ。

こうして藤波とは名勝負を展開した前田だったが、新日本での“緊張関係”はその後も続いた。今度は外国人レスラーが、前田らUWF勢の蹴りを主体とした攻撃一辺倒のプロレスを嫌ったのだ。

「アメリカには、UWFのようなプロレスはなかったから、ガイジンたちが前田との対戦を嫌って、新日本・外国人の連合軍対UWFのような感じになっていたんだよね」(藤波)

そんな中で事件は起こる。

86年4月29日、三重県津市体育館で前田vs大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントの一戦が組まれた際、アンドレが前田をわざとケガさせようとするような攻撃をみせ、反撃に遭うと、不可解な試合放棄をしたのだ。

「あの時、なぜアンドレが前田を潰すような攻撃を仕掛けたのかはわからない。でも前田は、新日本がアンドレを使って自分を潰そうとしたんじゃないかと、疑心暗鬼になったんですよ。猪木が前田に裏切りの可能性を感じていたと同じように、前田もまたいつ誰が自分を潰しにくるかわからない、そんな警戒心を抱いていた。それがリング上に緊張感を呼んでいたんです」(山本)

時代は猪木から前田へ決定的な転換期を迎えた

86年10月9日、両国国技館で猪木のデビュー25周年記念イベント『INOKI闘魂LIVE』を開催。メインイベントは、猪木が元ボクシング世界ヘビー級王者のレオン・スピンクスと異種格闘技戦で対戦。そのセミファイナルで、前田日明もキックボクサーのドン・中矢・ニールセンとの異種格闘技戦が組まれた。

しかし、カード発表が遅れたことや、ニールセンの経歴がわからなかったことから、前田は試合前、極めてナーバスになり、一時はボイコットも辞さない姿勢を示していたという。

「前田はあのニールセンとの試合は、新日本からの刺客が送られて、自分を潰しにきたと思ったようなんだよね。もちろん新日本はそんなつもりはなく、前田が格闘技戦に適した人間だから抜擢しただけだったんだけど。前田という存在を殺すなら、注目度の低いカードにすればいいんだから。でも、前田はなかなか警戒心を解かず、試合自体が流れてしまう可能性もあったから、試合前に僕が前田を説得したんですよ。『これはチャンスだから、ニールセンとの試合は受けるべきだ』と。『何かあったら、俺はリングサイドにいるから、変な手出しはさせない』とね」(藤波)

こうして、前田が潰されるかもしれない警戒心を抱きながら挑んだニールセン戦は、緊張感溢れる異種格闘技戦史上に残る名勝負となり、苦しみながらも4ラウンド逆片エビ固めで勝利した前田は人気が爆発した。一方、猪木vsスピンクスは凡戦に終わり、43歳の猪木から27歳の前田へ、“新旧格闘王交代”をファンに印象付ける結果となってしまった。

前田は、猪木と直接闘わずして「勝った」のだ。

「あの『INOKI闘魂LIVE』は、猪木神話が崩壊し、猪木時代から前田時代へと変わる決定的な転換だった。猪木衰えたり。あの猪木でもこうなってしまうのか。そんなファンの猪木への失望感が、前田への期待感へと変わっていったんですよ。前田率いるUWFというのは、『プロレスは最強の格闘技である』と言った、かつて猪木が言っていたことを先鋭的な集団なんです。猪木に執拗に挑戦を迫っていった前田は、馬場に挑戦を迫っていた頃の猪木そのものだった。猪木はあの時、前田に敗れたのではなく、“かつての自分”にシュートされたんです」(山本)

こうして70年から続いた猪木の時代は終焉に向かい、88年に新日本から再独立した前田は、新生UWFを旗揚げして社会現象と呼ばれるブームを巻き起こす。1986年は、ちょうどそんな時代の転換期だったのだ。

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。