「ダークヒーロー」としてのインセル

こうした国際的な動向の背景には、何があるのか。

有名なアクティヴィスト、フランコ・ベラルディは、『大量殺人の“ダークヒーロー”──なぜ若者は、銃乱射や自爆テロに走るのか?』(杉村昌昭訳、作品社、2017年、原著2015年)の中で、パリの同時多発テロ、コロンバイン高校の銃乱射事件、ヴァージニア工科大学のチョ・スンヒによる銃乱射事件など、世界中の銃乱射事件や大量殺傷事件について分析した。

ベラルディによれば、彼らの行動は「スペクタクル的【見世物的、劇場的──引用者注】な殺戮(さつりく)を伴った自殺」のようなものである。つまりそれは、現代的な「絶対資本主義」(金融資本主義)がもたらす絶望への「痙攣(けいれん)的」な反応なのだ。その意味で、彼らの大量殺人は「われわれの時代の主要な傾向を、極端な形で体現」している、とベラルディは述べる。

古典的なタイプの大量殺人者たちは、他者の苦痛を求めて快楽を得るサディスト的な特性を持っていた。しかし、現代の大量殺人者たちにとって、殺人とは「自分を世間に知らしめたいという精神病理的な欲求」の「表現」であり、自殺は「日常の地獄から脱出を図る方法」である。

ベラルディは、現代は「ニヒリズムとスペクタクルの愚かさの時代」である、と論じる。現代の「ダークヒーロー」たちの大量殺戮的な犯罪は、映画と観客、虚構と現実の境界線を消滅させ、うんざりするような愚かしいスペクタクルの中にすべてを溶かし込んでしまう。

スペクタクル社会(ギー・ドゥボール)の新たな段階としての絶対資本主義において、人々はいっそう現実から疎外(=人間らしさの本質を失うこと)されるようになった。まさしく『マトリックス』や『ジョーカー』のように、である。

現代の「ダークヒーロー」たちは、大量殺戮という自滅的な表現行為によって、疎外から脱してリアリティ(現実性)を回復しようとする。このとき彼らは、大量殺人をほとんど現代アートのように行っているのだ。

ベラルディは、現代の金融資本主義の暴力──それゆえに再生産される大量殺人者たちの「自己表現」──を何らかの政治的処方箋によって解決しようとすることは不可能だ、とも述べている。

インセルやダークヒーローの暴力に対して、この社会は政治的に何もできない。かろうじて為しうるとすれば、それは「アイロニー」(皮肉)の戦略だろう、という。つまり、滑稽で悲惨な現実に対してアイロニーを貫くことによって、精神の自立をぎりぎり維持すること。もう、それくらいしかできないだろう、と。

インセル的な反逆の暴力は、一部の極端な大量殺人者たちだけの問題ではない。

たとえば精神科医の熊代亨によれば、「何者かになりたい」「何者にもなれない」と深く悩んだ人々が、新しい生き方や稼ぎ方を体現するかにみえるインフルエンサー(影響力の大きい人)のオンラインサロンにハマっていく(「『何者かになりたい人々』が、ビジネスと政治の『食い物』にされまくっている悲しい現実」『現代ビジネス』2021年6月13日)。

ところが、そこで本当に実用的な技能やコネを得られる人間は、あくまでもごく少数で、多くの人々は「有名な○○の身内である自分」という一時的な高揚感を得られるだけだという。それほどまでに「何者にもなれない」というアイデンティティの空洞は深い。

どんなに地道に働き真面目に生きたとしても、給与面はもとより、社会からの正当な評価や承認を得られず、切り捨てのような扱いを受けるだけではないか。だとしたら、チート(ズル)で楽な生き方をした方が合理的だろう。オンラインサロンにハマる人々の背後には、そうしたニヒリズムがある。

あるいはいわゆる「論破」も、インセルにとっての暴力のように、持たざるものたちの武器であり、リベラルエリート社会に対する叛逆という側面があるのかもしれない。

論破とは、たとえ教養や知性がなくても、ある種の話法と自己暗示さえあれば、文化人や年長者に「勝利」できる、というテクニックのことだからだ。

重要なのは、他者の「論破」のためには、地道な成長も努力も不要である、ということだ。だからこそ、論破という叛逆は、生まれたときから何かを奪われている者、努力も成長も望めない者たちにとっての、チートな武器になりうるのである。

▲評価を得られない人々は皮肉に、ズルく生きるようになる イメージ:Graphs / PIXTA