山のふもとには遊女「けころ」がいた
「山下」は俗称で、寛永寺のある上野の山のふもとなので、こう呼ばれた。
現在の、JR上野駅の正面口と広小路口から出た一帯、つまり台東区上野六丁目のあたりである。
江戸時代、山下は江戸でも有数の歓楽街だった。
本来、山下一帯は、徳川家の菩提寺である寛永寺への延焼を防ぐための火除地として、空き地になっていた。
この空き地に、いざというときはすみやかに取り払うという条件のもと、幕府は簡易な建物、いわば仮設店舗を建てるのを許可した。
これにともない、歓楽街・山下が生まれた。
図1で、山下のにぎわいがわかる。
茶屋や芝居小屋、見世物小屋、楊弓場(ようきゅうば)などが立ち並び、多くの人が集まった。
やがて、山下は岡場所としても有名になる。いつしか、「けころ」と呼ばれる遊女を置いた女郎屋が林立したのだ。
『頃日全書』(宝暦8年)に、次のような事件が記されている。
宝暦八年(1758)六月二十日は八代将軍吉宗の命日にあたり、九代将軍家重や諸大名が寛永寺に参詣した。
町奉行の依田政次も多数を率いて御成道の警備にあたっていたが、たまたま駕籠が山下に入り込んでしまった。依田が駕籠の中から見ると、多くのけころが道行く男に声をかけている。
奉行所に戻った依田は、部下に厳命した。
「今日は上様の御成日なので、遠慮すべきであるのに、山下の遊女どもの振る舞いは言語道断である。女郎屋は打ちこわし、女はすべて召し取れ」
翌二十一日、奉行所の役人が出動して、数十人のけころを召し取るという騒ぎになった。女郎屋の主人はみな、手鎖に処された。
しかし、岡場所そのものは廃止にはならなかったので、けころはすぐに復活した。