最盛期、女郎屋の数は百を超えていた

けころの最盛期は安永~天明期(1772~89)で、女郎屋は合わせて百七軒あった。

享保から文化までの江戸の風俗を記した『続飛鳥川』に――

けころ、寛政の頃まで、上野山下など、大通りをはじめ、横町横町門並に有り、一軒に両人位づつ見世を張り、前だれ姿にて、大かたは眉毛有、年増もあり、いづれも美婦計りなり。白昼に見世を張、入口より三尺計奥に居る故、拵へものはなし、此外所々に夥しく有り、代弐百銅、夜四ツ時よりとまり客を取、食物なしに金弐朱。

とあり、多数のけころがいたのがわかる。

一軒の女郎屋に二、三人のけころがいて、入口付近で顔見せをしていたが、美人ぞろいだった。

揚代は二百文。

夜四ツ(午後十時頃)から、泊まり客を受け入れたが、揚代は食事なしで金二朱だった。

また、『塵塚談』(小川顕道著、文化11年)にも、けころについて――

是も一間の家に弐三人ヅツ限りに、出居る事也、花費は弐百文ヅツにて、いづれも美容貌を選び出したり。

とあり、一軒の女郎屋に二、三人のけころを置いていた。

花費は揚代のことで、二百文だった。

また、いずれも美貌ぞろいだったいう。

【用語解説】

・女郎屋(じょろうや) 
娼婦(遊女、女郎)を置いて、売春を営んでいる店のこと。妓楼や倡家、娼家、青楼などと呼ぶこともある。吉原の女郎屋は公娼を置き、岡場所の女郎屋は私娼を置いていたといえよう。

――中編に続く――

○今に残る山下の痕跡

JR上野駅山下口
山下口を出ると正面には飲食店ビル、その裏が上野公園(編集部撮影)
上野駅前商店街
上野6丁目にある。JR御徒町駅へと続く通り(編集部撮影)

『江戸の男の歓楽街』は次回3/18(水)更新予定です、お楽しみに。