結婚に踏み切れない理由

10年以上住んだ風呂無しアパートから退去してほしい、不動産屋からそんな連絡があったのは7月半ばだった。どうやらオーナーのお婆さんが亡くなり、相続するほど立派なアパートではないので、取り壊して土地を売りたいらしい。もちろん引越し費用などは先方で持つと。

いい機会だと思った。40歳を目前にして風呂無しアパートは、さすがにヤバいと思っていたし、家賃を少し上げて自分を追い込むのも悪くない。4万3000円から6万5000円と2万円以上も家賃がアップしたのは正直キツかったが、1Kユニットバストイレ付きで、自宅で好きなタイミングで風呂に入れるのは感動的だった。風呂代わりに使っていたジムはもちろん解約した。

そして、1年の集大成とも言えるR-1ぐらんぷりの予選が始まる。ゲロを吐きそうなほど緊張して臨むも、またもや3回戦落ち。この時期、今の嫁と付き合うのか付き合わないか覚悟が決まらない状態だったが、こんなときに愚痴をこぼせる相手は彼女しかいない。

「今年もダメだった」

「大丈夫! TAIGAさんが一番面白いから。絶対に売れると思う!」

彼女は、いつも立ち止まろうとする俺の背中を押してくれる。40歳近くまで走り続けてきたガス欠寸前の芸人は、もしかすると彼女のおかげで走り続けてこれたのかもしれない。俺はベッドに寝転がって天井を眺めていた。

「この部屋で一緒に暮らそうか」

彼女はポカンとしている。そりゃそうだ。何年も「付き合う気はないから」と言っていた俺の口から飛び出したのが「一緒に暮らそう」なんだから。彼女はうれしそうな表情を浮かべていたが、俺はなんだか恥ずかしくて、目を合わせることができなかった。

生まれて初めての同棲が始まった。毎日、家に誰かがいる。手が空けば掃除や洗濯をやってくれる。ごはんも作ってくれる。一緒にキッチンに立つこともあった。二人暮らしは楽しかった。

15年以上、一人暮らしをしていたが、家なんか寝に帰るだけの場所だった。深夜まで芸人仲間と飲んで、帰ったら寝て起きて、ジムで風呂に入って1日が始まる。それの繰り返し。

だが、彼女と暮らすようになると、生活が一変した。家に帰りドアを開けると、部屋のなかの暖かい空気がやさしく俺を包む。料理を作ってくれた日は、玄関の外までいい香りがすることもあった。家に帰るのが楽しくなった。今日あった出来事を彼女に話したい。バイトが終わったら寄り道せずに帰ろうと思ったし、時間が経つのを忘れて夜中まで話し込むこともあった。そして、俺は極度の寂しがり屋だったことにも気づいた。

しかし年齢も年齢だ。結婚を意識すると、また臆病になってしまう自分がいた。この歳になっても、その日暮らしを続ける二人が一緒になって、本当に幸せになれるのか? 結婚には踏み切れない自分がいた。