明治時代となり第一線から身を引いた勝海舟

明治時代になり、勝は政治の第一線からは身を引きます。新政府から重役の打診をたびたび受けますが、辞退をしたり、短期間に限って務めたりを繰り返しました。

江戸城無血開城の翌月、徳川家は地方大名に格下げされ、現在の静岡県にあたる駿府藩を与えられます。これを受けて、勝は静岡に移住します。幕府がなくなり、多くの幕臣が失業したため、新しい仕事を用意しなくてはいけません。

その仕事とは「お茶」です。勝は現在の島田・牧之原に広大な茶畑を作り、静岡はお茶の産地として成功します。静岡県内で取れたお茶は、天皇に毎年献上されています。

▲牧之原の茶畑 写真:Yoshitaka / PIXTA

また旧知の仲である西郷隆盛は新政府を下野し、1877年1月、西南戦争が起きてしまいます。このとき新政府の大久保利通は、勝に対して西郷への仲介役を依頼しています。大久保は西郷と同じ薩摩出身であるため、小さい頃から西郷に面倒を見てもらった恩義があります。大久保も西郷を失いたくなかったのです。

勝は仲介の条件を提示します。それは大久保が新政府を辞することです。交渉は決裂し、新政府軍に追い込まれた西郷は自害しました。

西郷がいなければ、江戸城無血開城も実現せず、明治維新後における勝の身分も保証されませんでした。勝のショックは計り知れないものであったと思われます。西南戦争後、勝は西郷の名誉回復のために尽力しました。また同時に、逆賊となった幕府の汚名を挽回することにも注力し、1898年3月には徳川慶喜と明治天皇の謁見を実現させます。そして1899年1月19日、赤坂の自宅で亡くなりました。

日本という国が存続するためならば、徳川幕府が滅びることもいとわなかった勝海舟。先行きの見えない幕末のなかで、常に対極的な視点に立ち、若者にチャンスを与え続けた勝の生き方こそ、今後の日本を考えるうえで重要な指針になるのではないでしょうか。

▲勝海舟 出典:改造社 /Wikimedia Commons