NHK大河ドラマ『どうする家康』。第4回「清州でどうする!」では、溝端淳平さん演じる今川氏真が瀬名に対して、家康と離縁して夜伽(よとぎ)役になるように迫るなど、氏真の“悪の顔”が印象的でした。
改めて史料を見返すと、戦国大名としての氏真は優秀な人物であるとは言えません。桶狭間の戦いでの敗北以降、相次ぐ家臣たちの離反、他国からの侵攻を受けて疑心暗鬼になった氏真は、多くの部下たちを暗殺、切腹に追い込んでいます。そして最終的には、駿河国を滅亡させてしまうのです。
そこで今回の記事では、大河ドラマの主人公にはならないであろう、パッとしない氏真の数奇な人生を紹介したいと思います。
戦国屈指の大国・駿河国を治めていた今川家
第3回の放送では、家康率いる三河国が尾張国と戦う「三河平定戦」が描かれました。再三にわたって家康は今川氏真に援軍を要請しますが、いつまで経っても援軍が来る気配がありません。痺れを切らした家臣たちは今川家と手を切り、織田信長と同盟を結ぶよう家康に説得をします。駿府城に瀬名と子どもを残している家康は葛藤しますが、ついに信長との和睦を決断しました。
家康が今川家を裏切る結果となったため、駿府城にいる三河衆の女性たちが次々と処刑されるシーンは、戦国時代の“現実”をまざまざと見せ付ける象徴的な場面でした。史料に従うと、このとき今川氏真は人質としていた松平家の家臣である妻13人を処刑しました。
一説には「串刺し」という大変残酷な方法であったとも言われています、愛知県豊橋市富本町には、処刑された13人を祀った「十三本塚」が今も残っています。
今川家が治めていた駿府があった現在の静岡県は、昔から朝廷との結び付きが強い土地柄でした。『鎌倉殿の13人』のラストを飾った承久の乱や、後醍醐天皇の倒幕運動のときには、天皇側で参戦した武士が多かったようです。
そのため室町幕府は、この土地を強く警戒し直轄領とします。守護には足利一族が任命されました。この一族たちが大きく繁栄したことから、それぞれの家が区別のために苗字を名乗るようになります。それが吉良・今川・細川・一色といった人々で、これらの先祖は同じ「足利」です。そして今川義元は、戦国屈指の大国である駿河国の当主として君臨しました。
天文7年(1538)、氏真は今川義元の嫡男として生まれました。そして永禄3年(1560)5月、父である義元は桶狭間の戦いで討死します。このとき、今川家を支える有力な家臣たちも失っています。この事態を受けて、22歳の氏真は今川家の家督を継ぐことになりました。駿府国の存続をかけた緊急事態のなか、いきなり政治デビューを果たすのです。氏真からすると、とても過酷な状況であったことは容易に想像できます。
瀬名を処刑しなかった判断は正しかったのか?
ドラマ(第3回)でも描かれましたが、家康は今川から信長へと同盟を切り替えます。永禄5年(1562)、信長のいる清洲城に家康が訪れたため「清洲同盟」と言われています。先ほども説明しましたが、この家康の裏切りを受けて、氏真は駿府城に滞在する三河衆の妻たちを処刑しました。
このとき氏真は瀬名には手を加えませんでした。その理由は、渡部篤郎さん演じる関口氏純の娘であったことが大きかったでしょう。氏純は駿河国を守るための重要な拠点である、持船城(現在の静岡市駿河区)の城主を任されていました。また室町幕府との連絡役である「奉公衆」も務めていました。このことからも、氏純が今川家を支える重鎮の一人だったと言えるでしょう。
しかし、このあと東三河の今川勢を家康が攻めているとき、家康の家臣である石川数正が単独で駿府城に乗り込みます。今回のドラマでは松重豊さんが演じています。この時代の感覚としては「瀬名と子どもたちはすでに殺されている……」と数正は考えていたと思いますが、予想に反して瀬名たちは生きていたのです。
そこで数正は氏真と交渉します。家康が東三河を攻めたとき、今川家の家臣である鵜殿長持の子どもを人質にしていました。長持の子どもとの人質交換として、数正は瀬名と子どもの奪還に成功するのです。
このとき数正の提案に応じてしまった氏真の判断には、首を傾げざるを得ません。瀬名と子どもを手元に置いておけば、何かあったときの外交カードとして使えたからです。また家康の立場から考えると、これで心置きなく今川家を攻めることができてしまいます。
永禄11年(1568)12月、案の定と言うべきか、駿府国は東(甲斐国)からは武田信玄、西(三河国)からは家康に攻められました。絶体絶命の氏真は掛川城に逃げ込み、籠城します。このとき、家康と信玄は「駿河国でお互いが支配した領土には攻め込まない」という協定を結びました。しかし、信玄はこの約束を破り、駿府国を管理下に置いたあと、家康が支配した遠江国にたびたび侵入を繰り返したのです。
そのため、家康は掛川城を包囲し、氏真に和睦の条件を提案します。その条件とは、武田氏を駿河国から追い出したあと、再び今川家が駿河国の当主になる、というものです。この提案を氏真は了承し、家康に掛川城を明け渡しましたが、この取り決めが実現することはありませんでした。
永禄12年(1569)5月6日、歴史の通説では、この掛川城の開城によって今川家が滅んだことになっています。