プライドを捨て生きる道を選んだ氏真

掛川城を追い出された氏真は小田原城に向い、同盟を結ぶ北条氏康の保護を受けることになります。しかし氏康が死去すると、家督を継いだ息子・氏政は今までの方針を転換。元亀2年(1571)10月、武田信玄と同盟を結び、氏真を殺害しようとします。

ここで氏真は、家康のいる浜松城に出向いて庇護を求めるのです。立場が完全に逆転した氏真のプライドはボロボロだったことでしょう。家康も、自身が幼い頃に人質として今川家が面倒を見てくれた、瀬名と子どもたちを処刑しなかった、などということに恩義を感じたのか、氏真を引き取ることにします。

また上洛をするため、かつて父・義元を討った信長と対面することになりました。京都で対面をしたとき、氏真が蹴鞠が得意であると聞いた信長は「4日後のイベントで披露しろ」と言います。過去に今川家の人質であった家康に頭を下げた氏真は、父の仇である信長にも見事な蹴鞠を見せて、信長を喜ばせたそうです。

ここまでくると、哀れな姿に同情すらしてしまう氏真の人生ですが、前半は駿河国の大名として、後半は文化人として生きることになります。家康の庇護を受け続けた氏真は、京都や浜松などを転々としました。

徳川幕府を支えた氏真の子孫たち

京都に滞在していたとき、氏真は仙巌斎(せんがんさい)と名乗りました。公家との交流を活発におこない、和歌会や連歌会に参加するなど、文化人としての人生を謳歌します。氏真は戦や政治よりも、芸術的な才能を持った人物だったのでしょう。私歌集『今川氏真詠草』のほか、約1700首の和歌を残しています。

▲今川氏真(集外三十六歌仙) 出典:Wikimedia Commons

慶長8年(1603)2月、家康が江戸幕府を設立すると、氏真は住まいを江戸(東京)の品川に移します。そして慶長19年(1615)12月28日に死去しました。77歳でした。

このあとも徳川家は今川家を取り潰すことはしませんでした。氏真の才能は子孫にも受け継がれ、平和な世になった江戸時代に生かされることになります。氏真の子や孫たちは徳川幕府を支え続け、朝廷や公家との交渉役を務め上げるのです。また幕府の儀式や典礼を担当する高家旗本に就くなど重役を果たしました。

氏真の詠んだ和歌に以下のような歌があります。

「なかなかに 世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科(とが)にして」
(世の中や人を恨んでも仕方がない  時代に適応できなかった自分が悪いのだから)

「悔しとも うら山し共思はねど 我世にかはる世の姿」
(地位や名誉を失ったことを悔しいとも、また成功した人を羨ましいとも思わないが、私が生きてきた世界は本当に大きく変わってしまった)

戦国大名として華々しい実績を残せず、駿河国を滅亡させた氏真。しかし、激しい動乱のなかで討死や切腹を経験せず、77歳という天寿を全うした氏真の人生は「大往生だった」という解釈もできるのではないでしょうか。

▲観泉寺(杉並区)は今川氏の菩提寺 写真:mr.アルプ / PIXTA