1月8日にスタートしたNHK大河ドラマ『どうする家康』。第1回「どうする桶狭間」では、松本潤さん演じる家康と有村架純さん演じる築山殿(瀬名)の結婚シーンが描かれ、二人の仲睦まじい姿に胸が温かくなった人も多いと思います。そして、第4回「清州でどうする!」では、信長の妹である市との結婚を断り、瀬名を助けるために今川を討つ決心をしました。

しかし歴史を紐解いていくと、このあと家康と瀬名の関係は悪化し続け、最悪の結果がもたらされます。そこで今回の記事では、史実に従いながら家康と瀬名の関係を紹介しましょう。

姉さん女房だった瀬名との仲は?

今川義元の人質だった家康は、義元の部下であった関口親永の娘である瀬名と結婚します。ドラマでは詳しい年齢の説明はなかったですが、家康が15歳のときで、瀬名は25歳でした。家康の年齢にも驚かされますが、瀬名は10歳年上の姉さん女房でした。

当時の女性は、たくさんの子を産むことが大きな仕事だったため、10代で相手方に嫁ぐのが一般的です。瀬名が25歳まで結婚できなかった理由に関しては「別の大名に嫁いだが死別した」「容姿に問題があった」など、さまざまな説があります。

ドラマでは大いに喜んでいた三河衆でしたが、実際のところは「あんな年上で……」という声が多かったようです。しかし、小さな頃から人質だった寂しい家康にとって、姉さん女房である瀬名との相性は悪くなかったようで、家康とのあいだに信康(長男)と亀姫(長女)をもうけます。

そして永禄三年(1560)、家康が19歳のときに桶狭間の戦いが起きます。ドラマを見ていなくても歴史の授業などで知っていると思いますが、この戦いで今川義元は織田信長に敗北します。これ以降、今川氏は坂を転げ落ちるように没落していくのです。

家康の三河国は今川氏との同盟を断ち、信長と同盟を結びます。これによって家康の人質生活は終わりを迎えることになりますが、今川氏からすると家康は裏切り者です。瀬名の父である関口親永は「家康裏切り」の責任を取らされ、切腹をしています。

三河国として独立した家康は、今川氏から遠江国を奪います。一方、戦国最強と言われた武田信玄は、ついに天下統一へと名乗りをあげます。往年のライバルである上杉謙信とも和睦を結び、京都への上洛を目指したのです。その手始めとして、信玄は桶狭間の戦い以降、弱体化する今川氏の駿府国を占領します。

この信玄の進出によって、家康(三河国)と信玄(甲斐国)は国境を接することになります。信玄が亡くなったあと、武田家を継いだ勝頼はたびたび三河国に侵入し、家康を悩ませることに。武田氏に対応するため、家康は浜松城を建設して本城とします。

この時期から、家康と瀬名の関係に暗雲が立ち込めるのです。

▲家康と瀬名の関係に暗雲が… 写真:unionjpn / PIXTA

「家康暗殺」計画の真相

元亀元年(1570)、家康は浜松を本拠としましたが、瀬名は岡崎城主となった信康と一緒に留まります。この情報を知った武田勝頼は岡崎城にスパイを送り込みます。戦国時代は敵国に侵入し、現地で探りを入れる「情報戦」も盛んにおこなわれています。武田氏と聞くと、戦に強い印象を受けますが、情報戦にも長けていました。

スパイとして送り込まれたのは減敬(げんけい)という中国人です。医者として岡崎城に侵入し、体調が優れなかった瀬名への接近に成功します。このとき瀬名は家康にストレスを感じていました。瀬名は、今川義元の部下であった関口親永の娘です。今川氏との同盟を破棄し、信長側に付いた家康に憤りを感じていたのでしょう。

また家康は浜松城ばかりにいて、瀬名を相手にしなかったことも原因として考えられます。このとき家康は30代で、多くの側室とのあいだに子が生まれていました。遊女には近付かなかったので、当時流行した感染症の「梅毒」にはかかっていません。家康の慎重な性格を物語るエピソードです。

瀬名は減敬と共謀し、家康の暗殺計画を立てます。また瀬名は「暗殺が成功したら、武田氏の有力家臣と結婚したい」と要求したのです。減敬から報告を受けた勝頼はゴーサインを知らせる書状を送ります。しかし、この計画は事前にバレてしまいました。信康の妻が、信長の娘(五徳姫)だったからです。

偶然にも五徳姫は、勝頼が送った書状を発見し、信長に知らせます。暗殺計画を聞かされた信長は、ちょうど尾張に来ていた家康の部下、酒井忠次(ドラマでは大森南朋さんが演じています)にさりげなく尋ねました。酒井は「十分に考えられる」と答えたそうです。また「長男の信康も暗殺計画に加担している」と信長に伝えます。

しかし、実際のところは「家康の暗殺後、信康を武田家として迎え入れるように」と、瀬名が勝手に話を進めていただけで、信康はまったく関与していませんでした。なぜ酒井がこのようなことを言ったのかわかりませんが、一説には出世のためという指摘もあります。

信長はすぐさま、浜松にいる家康に伝えます。家康はあまりのことに茫然自失だったそうです。この知らせを受けて、家康は信康に切腹を命じ、また瀬名の殺害を指示します。信康は身の潔白を証明するためとして切腹。瀬名も激しく抵抗したあと、殺されてしまいます。天正七年(1579)のことでした。

以上が史実に従った、家康と瀬名の悲しいストーリーになります。

▲家康と瀬名、幸せな時間は長くはなかった… イラスト:舛田史絵

瀬名の一件があったあと、豊臣秀吉との関係で一時的に正妻を迎えたことはありましたが、家康はそれ以外で正妻を置くことはありませんでした。また結果として、無実の信康を巻き込んでしまった酒井忠次ですが、家康は何も言わず、あくまでも家臣の一人として公平に扱いました。

ただ、その酒井に長男が生まれて家康に紹介したとき、家康は「お前も息子が可愛いか」とぽつり言ったそうです。