1990年代後半からプロ選手も参加できることになった日本代表チーム。現在ではメジャーリーガーも含めてプロ選手が出ることが当たり前となっているが、それ以前はいろいろなしがらみもあり、オールアマチュアで参加する大会もあった。
今回は、2000年代のオールプロで参加した日本代表の戦いを見ていきながら、その時代の国際大会の特色を紹介していきたい。
2000年代の国際大会の特色
2000年代のオールプロで参加した国際大会を見ると、日本・韓国のアジア勢とキューバの強さが目立っていたように見受けられる。
アテネ五輪(2004年)はキューバが金メダル、日本が銅メダルを獲得。その後、日本はWBCを連覇(第1回2006年、第2回2009年)。北京五輪(2008年)は韓国が金メダルを獲得し、2009年WBCでは準優勝になるなど、歴史的に見ても屈指の強さを見せていた。
日本に関しては、実力的には下の相手との試合を取りこぼすことも多かった。スカウティング不足や国際大会における戦い方、方向性が定まっていなかったとも言える。具体例を挙げると、選手の選出や辞退者はもちろんのこと、五輪とWBCで選出方法がバラバラだったことは否めない。
そのなかで、イチローが参加したWBCでは戦いながらチームの方向性を定めて、連覇を成し遂げた。世界に日本の野球を轟かせられたのではないだろうか。
アテネ五輪は、初のオールプロでありながらシーズン中の国際大会だったこともあり、各球団2選手までの選出という規定があった。そのために選考段階で難しい判断になったのは間違いない。また、国際大会における準備不足とスカウティング不足も露呈した。
当時、対戦成績が悪かったキューバに意識がいきすぎた。その結果、ノーマークだったオーストラリアに2連敗を喫し、金メダルを逃すことに。そのオーストラリアは、五輪前に日本でプレーをしていたニルソンやゴンザレス、ウィリアムスが投打の軸として出場。
特に、ニルソンには日本の野球を丸裸にされており、ウィリアムスが「ディンゴは『五輪で日本戦に勝つために日本野球でプレーしたんだよ』って言ってたよ。それほど日本選手を研究していた。バッテリーが母国語でコミュニケーションを取れるのは大きかったね。僕ももちろんオーストラリア代表の一員として、チームに情報を提供したよ」とコメントするほどだ。
また、このときのオーストラリアは決して楽に勝てる相手ではなく、マイナーリーグに15人が所属しており、現段階では歴代最高のチームだったと言っても過言ではない。しかし当時の日本の実力を見ると、キューバと同様に研究さえしっかりすれば勝てていただけに残念な結果となった。
北京五輪は、大会前にメディアから金メダルが約束されていたかのような雰囲気だったが、まさかのメダルを獲得できずに終わった。
その要因は、ライバル・韓国をはじめとしたキューバ、アメリカに1勝もできずに終わったこと。韓国に関しては、この大会のために国内リーグを休止して臨んだことから、大会に賭ける意欲や事前の調整に関しても差が生まれた結果に。
キューバに関しても、2006年のWBCではメジャーリーガーなしで決勝に進出している。当時もグリエルやデスパイネ、ベルなどメジャーや日本で活躍する選手が数多くいた。
星野仙一氏は大会前の練習試合の視察を試みたが中止になってしまう。しかし、キューバに関しては野球の世界大会にほとんど出場しているため、北京五輪の大会前からではなく、さらに前から研究はすべきだったのではないだろうか。
アメリカに関しても、メジャーリーガーがいないから楽に勝てると高を括っていた可能性が高い。その結果、アメリカにも2敗している。まさに史上最悪の国際大会だった。
アテネ五輪とは異なり各球団2選手の縛りなどがないにも関わらず、実力主義ではない選出方法も含めて、理解が追いつかないレベルで一番酷い大会だったと言っていいだろう。