つらい状況を耐えたその先に本当のチャンスがやってくる。ガラガラの会場、ブーイングの嵐、会社の身売り……。存亡の危機にあった新日本プロレスを支え続け、プロレスファンからの罵倒を乗り越え、不動のエースになった「100年に一人の逸材」は、逆境の中でもがきながらも、言葉を力にして立ち上がった。棚橋弘至が、その“力強さ”と“怖さ”を語る。
「父親」と「受験」の話
長女が中3で高校受験を目前に控えていたころ、夜遅くまで勉強している姿を目にした。
僕が試合から帰ってきてシャワーを浴び、洗濯を終えるのがだいたい夜中の1時。ちょうど同じ時間に勉強を終えて、部屋から出てきた娘と歯を磨くのがその頃のルーティンだった。
僕も受験勉強を経験したので、なんとなく心中は察してあげられるのだが、東京と岐阜の違いもあって、上手くアドバイスをしてあげられない。東京の高校事情をよく理解していないからである。深夜1時を過ぎてもまだ勉強していることもあり、「受験って、こんな大変だったっけ?」といたたまれない気持ちになった。
自分のことだったら「まあ、落ちてもしょうがないか」と割り切れるのに対して、わが子のことになると「なんとか合格させてあげたい!」と強く思ってしまう。受験シーズンは子どもより親が緊張する。
受験へのプレッシャーの記憶はやはり重い。もし、僕が「もう一回やれ」と言われても絶対できない。しかし、これからの人生、この時期、この瞬間、頑張らないといけないことにいくつも出くわす。わが子にも受験をうまく乗り越えてほしいと思った。
僕は高校受験のとき、平均点が少し足りなかったので志望校のレベルを一つ下げた。最後までなかなかその踏ん切りがつかなかった息子を見て、父は次の言葉を掛けてくれた。
「弘至、学校の名前で勉強するんじゃないぞ。どこに行っても勉強するのはお前自身やからな」──。
この一言がストンと胸に落ち、僕は志望校のレベルを一つ下げた。そのおかげか、入試の点数が合格者の中で一番だったらしく、入学式では代表の挨拶を務めた。
父からもらったこの言葉は、前述の手紙同様、今でも僕の心に深く刻まれている。どこへ行っても“自分次第”ということは、「環境を言い訳にするな」という解釈ができるからだ。
新日本プロレスの内情がもっともキツかった2000年代。新天地を求めてか、「もうやってられない!」という絶望からか、選手やスタッフにたくさんの離脱者が出た。
この当時、僕の支えになったのが、受験のときの父の言葉「頑張るのはお前自身」=「環境を言い訳にするな」だった。
娘の話に戻すと、常日頃から勉強を頑張ってきた彼女は5教科の内申点がとても高くあり、推薦でも行ける高校がいくつかあった。
推薦でこのまま進学先を決めてしまうか? それとも、最後まで第一志望を目指して頑張るか? 彼女はその選択に迫られた。
「ふ~、難しい問題やなあ」と思っていたところに、当の本人である娘に「パパはどう思う?」と聞かれてしまった。
推薦で決まってしまえば、第一志望は受験せずにあきらめる。
推薦をやめれば第一志望は受けられるが、合格の保証はない。
もし落ちたらと考えると「推薦にしとけばよかった……」となる。しかし、もし受かればそれがベストだ。
よいイメージを持って取り組むことは大事だけれども、最悪の状況を考えてしまうのも人間というもの。僕が心配したのは、推薦で行ける高校があるのに受験勉強へのモチベーションが続くのかという点だった。
娘によいアドバイスを何も掛けられないまま、悶々と過ごしていた。
そんなとき、嫁さんが言った。
「もしどっちも(推薦のところと第一志望)受かってたとしたら、どっちに行きたい?」
娘は答えた。
「第一志望」──。
彼女の迷いを断ち切るよいアドバイスだった。「じゃあ、最後まで頑張ってみなよ」ということになった。
結果的に娘は、残念ながら第一志望には落ちてしまった。でも、そばで見つめてきたあの努力は、これからの人生でけっして無駄にはならない。
僕は彼女に対し、次の言葉を贈った。自分が父親から言われたように。
「どこの学校に行っても、そこで何を学ぶのかはキミ自身だから」──。
いま、娘は毎日楽しそうに通学をしている。
※本記事は、棚橋弘至:著『カウント2.9から立ち上がれ!(マガジンハウス刊)』より、一部抜粋編集したものです。