時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。

【前回までのあらすじ】無意識のうちに出した右手が万念をとらえ、デビュー戦でレフェリーストップによる勝利をあげたアンドレ。ところが控室へ戻ると気まずい雰囲気が漂っていた。待ち構えていた運命が口を開く――。

アンドレ・ザ・ジャイアントを知らなかったアンドレ

「何から言おうか…まず、結果に関してはタスケ社長のいう通りだ。ハッキリ言ってまったくプロレスになっていなかったが、それはおまえがまだ身につけていないのだから仕方がない。問題はそれ以外だ」

ぼくは、先輩の万念さんをあんな目に遭わせてしまったこと、そしてプロレスの攻防を何一つ見せなかったことでこういう雰囲気になっているんだとばかり思っていた。でも、どうやら違うらしい。

「アンドレ…わかっていると思うが、おまえも一度ぐらいはアンドレ・ザ・ジャイアントを見たことがあるだろ? 今日のおまえは、自分がどういうキャラクターなのかをまるで考えていなかったよな」

一瞬、息が詰まった。ベルばらの登場人物のほかに、アンドレという名前の有名な人が世の中にいる事実を突きつけられたからだ。

「いえ…運命さん、すいません。そのアンドレ・ザ…なんとかっていう人、ぼく知りません」

「なんだと? おまえ、アンドレ・ザ・ジャイアントを知らないのか? 見たことないのか?」

「すいません。知らないんです」

「知らないって、おまえ…いくらおまえが若くても、プロレスファンなら誰もが知っている名レスラーだぞ」

やっぱりそうだったのか。その名前からして、プロレスラーだろうと思ったんだ。

「すいません。ぼく、プロレスファンじゃないんです。見たのも、この前の楢葉が初めてだったんです」

驚きのあまり、運命さんは10秒ほど黙ってしまった。ぼくは続けた。

「あのう、タスケさんに言われるまま巡業について…東北のいろんなところにいきたくて…それがいつの間にか、こんなことになっていました」

「……安藤レイジ、だったな。キミは、自分にアンドレというあだ名をつけられたのはなぜだと思っていたんだ?」

「友達のみんなから理由を聞いたことはなかったので、ずっと『ベルサイユのばら』のアンドレだと…あ、あの、もしかしてプロレスラーのアンドレっていう人は大きいんですか?」

「2m23 cm。もう10年以上も前に亡くなったけど、世界最大級のデカさだった。人間山脈って呼ばれていたぐらいだからな」

ぼくの中で何かがうごめき出した。体中がカーッと熱くなり、のど元に息のかたまりがつっかかっている感覚…ショックとも、衝撃とも違う何かだ。

どうしてみんなが「アンドレ」と呼ぶのか、本当の理由を知ってしまった。ぼくに対する言葉、ぼくに対する視線、その裏に見え隠れする含み…これで全部納得がいく。

お客さんも、今日がデビュー戦の新人のことなど知っているはずもない。あの声援は全部、ぼくにアンドレ・ザ・ジャイアントさんを重ね合わせていたんだ。

すべてを悟ったぼくを見て、運命さんは言葉を続ける。

「これでわかっただろう。アンドレ、おまえは東北プロレスのアンドレ・ザ・ジャイアントになるんだ。最初はマネでいい。アンドレの動きや技を研究して、誰が見てもアンドレ・ザ・ジャイアントを連想するようにしろ。そうやって土台を作ってから、自分の個性をつけていくんだ。まあ、それも1年や2年でできるほどプロレスは簡単ではないがな」

運命さんによると「アンドレ」をリングネームにするのはタスケさんの判断で、入場曲もジャイアントさんが当時使っていたものだという。「レスラーが身長をサバ読むぐらい、当たり前だろう」と、180cm台から191cmにしたのはテッドさんだった。

「アンドレ・ザ・ジャイアントはな、デカすぎて強すぎるから相手がいないぐらいだったんだ。だからおまえも強すぎてふてぶてしいぐらいに見せろ。

今日、おまえは勝ってガッツポーズを何度もしていただろ。それじゃ普通の新人と変わらない。勝ったのをアピールするのは手をあげられた時の一度でいい。あとは吠えたり暴れたりしながら帰れ。つまり、巨大な怪物のイメージを作りあげるんだ」

運命さんからいただいたアドバイスは、プロレスの技や勝つための戦法ではなく、お客さんに喜んでもらうための心構えだった。ぼくは今日初めて知った「アンドレ・ザ・ジャイアント」という人のことを調べなくちゃいけなくなった。

スパッツの上からジャージーを履き、Tシャツを着たらすぐにいつもと同じセコンド業務へと戻る。デビュー戦で勝ったからと喜びに浸っている暇などなかった。

そもそも、自分が勝ったなんてまるで思えない。たまたま振った手が張り手のように顔面をとらえただけだ。ガッツポーズも、やれと言われたから見せたまで。喜びよりも、無事やられずに済んだことの方がぼくの中では大きかった。