時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。

【前回までのあらすじ】ホテルへ泊まれると思いきや宣伝カーの中で一夜を明かしたアンドレ。労力に合わないことへなぜここまで情熱を傾けられるのかテッドさんに聞くと「プロレスは、ひとことで語れるような浅いもんじゃないんだよ」と答えが返ってきた。

デビュー戦の日向が練習中の事故でケガ・・・

「ああテッドさん、お疲れ様です! アンドレは使えましたか?」

会場入り口に当日券売り場を設置していた宇佐川さんが、意地悪そうに言ってきた。ぼくはその答えにちょっとドキドキしたが、テッドさんは「はい、前売りの売り上げね。思ったより伸びてなかったわ」とこぼしながら、お金とチケットを渡すだけだった。

すでに場内にはリングが設置され、ブルーシートも敷かれている。テッドさんの後ろにくっついて中へ入ると、アリーナの一角にみんなが集まっていた。

なんだろうと思い近づくと誰かが倒れ込み、他の先輩たちが中腰になって心配そうに覗き込んでいる。テッドさんが「ど、どうしたんだよ!?」と駆け寄るや、運命さんが深刻な顔つきで振り向いた。

「日向が練習中にケガしまして…これ、手の甲が折れていますよ。今、救急車呼んだんで、もうすぐ病院に連れていけると思うんですが…」

「日向がケガって…おい、日向は今日がデビュー戦だろ?」

倒れていたのは確かに日向先輩だった。右手をぶらんとさせたまま、万念先輩に持ってもらっている。たぶん、ちょっとでも動かしたら激痛が走るのだろう。

「ケガって、何やらせたんだよ!」

テッドさんが怒ったような口調で、誰に言うともなく聞いた。みんなの説明によると、日向先輩は夢にまで見たデビュー戦を目前に控え、いつも以上に気合を入れて練習していた。

その際、舞台下の床で腕立て伏せをしていると、上に置いてあったダンベルというウエートトレーニング用の重い器具が、何かの弾みで落下。日向先輩の右手を直撃したらしい。

ダンベルは2つの球状の金属が、車輪のようになっていて転がりやすい。事情を聞いたテッドさんは「バカ野郎! ウエート器具を危なくないように置くなんて初歩的なことだろ! なんで注意しなかったんだよ」と語気を荒げる。

でも責めている口調とは違う。テッドさんも、厳しい練習に耐えてようやくデビューへとこぎつけながら、こんなことになってしまった日向先輩の不運がたまらなかったんだと思う。

「すいません! すいません!!」

すでに涙ぐんでいた日向先輩が、テッドさんの言葉を聞いてさらに泣きじゃくった。プロレスラーになろうと思っていないぼくにでも、その無念さは痛いほど理解できる。

しばらくすると、サイレンが近づいてきた。外にいたため何が起こったのか知らずにいた宇佐川さんが「ちょっと、なんで救急車が来るのよ!?」と慌てて入ってくる。

すすり泣く日向先輩の右手を固定し、外の救急車まで連れていった。まだ、お客さんが集まる前だったから騒ぎにはならなかったけれど、あとに残ったぼくらは重苦しい雰囲気に包まれた。

「せっかく楽しみにしていたデビュー戦なのに…なあ」

「仕方がないよ。ケガを治して出直せばいい。日向だったら、こんなことで諦めたりはしないだろ」

先輩たちが、口々にそんな会話を交わしている。そこから少し離れたところでタスケさんと運命さん、そしてテッドさんが真剣な表情で何かを話し合っていた。

ぼくは何をやればいいのかわからなかったので、いつも通りに脚の屈伸運動を続けていた。すると、10分ほどしてからタスケさんたちが近づいてきた。

「アンドレ」

すべてを見透かすような運命さんの目。何を言われるのかと、ぼくの心臓がバクバクと鳴り響く。

「タスケ社長の判断で今日、日向の代わりにおまえをデビューさせる」