時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。
タスケのことになると熱く語り出すスタッフの宇佐川さんやレフェリーのテッドさん。最初は疑念しかなかったアンドレだが、それを聞いてタスケの魅力を理解していく。そうした中、テッドさんに連れられ2度目の営業で郡山に――。
車をホテル代わりにしてまでプロレスをする理由
日中は、大きな街で人が多いとどうしても目立ってしまうためポスター貼りは夜がいいのだという。まだまだ経験不足のぼくでも役立つようにと、テッドさんは「おまえが段ボール箱につけたのを、俺が貼っていくから」と分担してくれた。
何百枚とあるポスターは、貼っても貼ってもなくならない。気がつけば深夜になり、もう少しで日付が変わろうとしていた。いつになったら盛岡に戻るんだろう。あるいはこのまま、郡山に泊まるのか。
「テッドさん、こんなに遅くなって盛岡に帰れるんですか?」
「あれ? 言ってなかったっけか。今日は盛岡に帰らないよ。明日の昼まで郡山にいて、ここから試合場へ直接向かう」
よかった! これから帰るなんて、何時に合宿所へ着くかわかったもんじゃない。このまま泊まった方がずっと楽だ。巡業でも、いつも試合が終わったら車を走らせて盛岡に出ていたから、ホテルのベッドで寝られるなんて極楽だ。ところが…。
「何おまえニヤけてんだよ」
「いえ、このまま郡山に泊まれてラッキーだなって…」
「はあ? おまえまさかホテルに泊まれるとでも思ってんの?」
ニヤけていたぼくの顔が、一瞬にして固まった。
「甘いよおまえ! このまま車の中で寝るんだよ。冬ならともかく、夏なんだから数時間寝るためだけにわざわざホテル代かけると思ってんの?」
思ってんの?って、ぼくの感覚の方がどう考えても正常だろう。プロレス団体って、こんなに節約しないとやっていけないのか?
プロなんだからそれなりに選手は稼げて、会社は儲かっているものだとばかり思っていた。毎日毎日、あんなにキツい練習をして、あんなにキツい巡業をやって、あんなに体を酷使して、それでもお金の見返りが少なくて、どうして続けられるのか。
運転席の時計は深夜3時を指していた。テッドさんは大通りから少し離れた小道に宣伝カーを停めると、リクライニングを倒した。
「さーて、寝るぞ。3時間ぐらい経ったら出発するからな」
どうやら本当に車の中で一夜を過ごす気でいるみたいだ。しかも朝6時には起きるって…たしか、明日の試合地は宮城県の登米(とめ)市だから、隣の県か。
ぼくらの年代でも知っている漫画家・石ノ森章太郎の出身地で、ふるさと記念館もある登米はもともと郡だったのが、つい最近隣接する9町が合併し市になったばかり。面白いのは、今も市内の町名として残っている登米町の方は「とよままち」と読む。同じ漢字でも、市と町で読み方が違うんだ。
そんな全国でも珍しい街にいけるなんて、東北プロレスの巡業に参加しなかったら一生に一度でもあったかどうか。それぐらい楽しみにしていたのが、まさか前の日にこんな夜を過ごすことになるとは…。
ぼくは、後部座席へ横になる。そして、テッドさんが寝入る前に聞いておきたかった。
「テッドさん、車の中で寝るぐらいお金を切りつめてでも、プロレスの仕事を続けたいと思うのはなぜなんですか?」
こちらに顔を向けることなく、寝たままの状態でテッドさんは語り出した。
「おまえはプロレスファンじゃないって言っていたから、わからないかもしれないな。なぜなのかって言われたら、もう『好きだから』って答えるしかないよ。もちろん、好きになる理由はいろいろあるよ。だけど、ひとことでは語れない。プロレスは、ひとことで語れるような浅いもんじゃないんだよ。おまえだってさ、難しい地名を憶えるのが好きだって言ってたけどさ、俺から言わせればその理由がわからないよ。でも、誰がなんて言おうとおまえはそれが好きなわけだろ? その理由を、いちいち説明できるか?」
「説明…しづらいです。今まで聞かれたこともないから、説明したこともありません」
「人間が好きなものなんて、そういうもんじゃないの? みんな、そうだよ。俺だけじゃなくタスケだって運命だって、万念だってそうだ。そりゃあ、誰だって金をいっぱい稼いでうまいもん食って、いい暮らししたいよ。あ、いい嫁さんもほしいよなあ。でも、それ以上の価値がプロレスにはあると思ってやっているんだよ」
10秒、20秒、30秒…1分ほど、ぼくは何もいわずにテッドさんの言葉の意味を噛み砕いていた。そして、返答する。
「好きなことをやるのって、本当に、本当に大変なんですね…テッドさん? テッドさん!」
運転席を見ると、テッドさんはいびきをかきながら爆睡していた。「ハーッ」とため息をしつつ車窓から外を見上げると、今にも降り注いでくるかのような星たちが空を覆い、信じられないぐらいにきれいだった――。