時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。

【前回までのあらすじ】デビュー予定だった先輩が試合前にケガを負ってしまったため、急きょ代役として試合に出ることを言い渡されたアンドレ。思わぬ事態の中、その対戦相手は一番世話になっている万念先輩だった。

小学生なのにプロレスのリングへ・・・

プロレスラーのデビュー戦って、みんなこんなにも慌しいものなのだろうか。試合があるといっても、雑用は免除されない。

開場してからは、グッズ売り場でサインのサービスをする先輩の横へ立ってお客さんが払ったお金を受け取り、商品を渡す。そうしているうち、開始30分ほど前にテッドさんが来て「そろそろ準備をしろ」と言われた。

青コーナー側選手控室へいくと、先輩たちが「アンドレ、緊張するなよ」とか「とにかくガムシャラにいけ」など口々にアドバイスをくれたが、ほとんど頭の中に入らない。一番奥に座る運命さんに手招きされた。

「運動靴にジャージーで試合するわけにはいかないからな」

そう言いながら差し出されたのは足首のところまであるシューズと、黒いスパッツだった。

「今日のところはこれを貸してやるから着替えろ。アマレス用のシューズはサイズが少し合わないかもしれないが、我慢しろ。そして柔軟を入念にやっておけ。出番10分前になったら、控室前の通路で待っているんだ」

健康診断とかで注射をされる時、アルコールを含んだガーゼで腕を拭かれると観念する。今が、それと同じ状況だった。シューズと試合用パンツを渡されたら、もう本当に逃げられない。

頭の中が真っ白になり、ぼくはあらゆる思考を停止させたままスパッツを履き、シューズに足を入れてヒモを締める。とても落ち着かなかったので、早めに控室を出た。

鉄の扉の向こうには、ぼくのことを初めて見るお客さんとリングが待っている。まずは正気を取り戻すべく、運命さんに言われたのを思い出し柔軟を始めた。

オープニングで唄を歌う徳二郎さんが横を通り過ぎるさいに「体だけでなく首もほぐして。ケガしないように」と声をかけてくれた。そうか、そのために柔らかくしておくのか。

「本日は東北プロレス登米大会にご来場いただき、まことにありがとうございます!」

リングアナウンサー・因島さんの前口上が始まった。鉄扉のすき間からアリーナを覗くと…四方のブルーシートはけっこう埋まっている。

「今日は思ったより売れていないはずじゃ…こんなにたくさんの人の前で試合をやらなきゃいけないの!?」

学校の学芸会で劇をやった時は、もっと少なかった。しかもそれは、舞台前の一方向から見られていた。でも、プロレスは四方を観客の目で囲まれる。

「アンドレ、将来は絶対プロレスラーになれよな!」

学校でずっと言われ続けてきたあの言葉が、ふいに浮かんでくる。将来どころじゃない。ぼくは…小学生でプロレスのリングに上がってしまうんだ。

徳二郎さんの歌が終わった。大会開始を告げるゴングが5回鳴らされる。ああ、ついに…。

「第1試合、15分1本勝負…はじめに青コーナーより本日デビュー戦、アンドレ選手の入場です!」