本能寺の変をプロパガンダに使った豊臣秀吉

ちなみに、調略嫌いの謙信も、織田信長との戦いでは、それを使っています。

能登(石川県)の七尾城は上杉・織田の中間地点で、城主の畠山家では、どちらにつくかで家臣団が割れていました。そこへ謙信は「上杉につかねば踏みつぶすぞ」と書状を送り、上杉派が決起して織田派を駆逐しました。謙信はよほど信長と戦いたかったようですが、現実主義者の信長は援軍に来ませんでした。

▲織田信長(長興寺蔵) 出典:Wikimedia Commons

信長の生涯に関しては、小著『大間違いの織田信長』(KKベストセラーズ/2017)で詳述しましたので、今回は一つだけ。

信長最大のプロパガンダは、本能寺の変です。

信長は最も信頼していた部下の明智光秀に囲まれ、死を悟ります。そこで何をしたか。自分の死体を隠すことです。これは効果覿面(てきめん)でした。

信長の敵討ちに舞い戻った羽柴秀吉は、「信長公は生きている」という情報を流しまくって事態収拾の求心力にしました。「もし信長が生きていて、明智についたということがわかったら、あとで何をされるかわからない」というわけです。

当時の評価では、明智光秀は信長の親衛隊長にして最強の武将であり、秀吉が勝つと思っていた人は誰もいませんでした。しかし、秀吉のプロパガンダは絶妙で、下馬評を覆して山崎の戦いで明智軍を倒します。合戦が始まったときには、秀吉のほうが数倍の勢力になっていました。プロパガンダの勝利です。

秀吉は、山崎の戦いも見事でしたが、その後がもっと秀逸でした。織田家を乗っ取り、かつ自分を悪者にさせなかったのです。

信長の後継者候補の二人の息子、信孝と信雄の関係は極めて険悪でした。秀吉はこの二人の対立を煽りまくり、最初は信雄側について天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いで信孝を切腹させ、翌年の小牧長久手の戦いでは、信雄と組んだ徳川家康と戦います。

緒戦ではデマを流して家老三人を信雄に殺させ、膠着状態に入ると圧力をかけて信雄に単独講和を結ばせます。さらに、手強い家康もまた大坂に呼びつけます。信雄に官位を与えて主家をないがしろにはしないというアピールをするとともに、自分よりは下に置きます。天皇の権威で、自分が上にいることを周囲に納得させるのです。

天正18(1590)年、小田原合戦で秀吉は天下統一を果たしますが、その後の国替えに反発した信雄を放逐しました。織田家乗っ取りの完成です。

秀吉のプロパガンダは今も生きています。明智光秀はいまだに「主殺し」の代名詞です。

戦国の覇者とは、プロパガンダのチャンピオンのことなのです。

※本記事は、倉山満:著『バカよさらば -プロパガンダで読み解く日本の真実-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。