試合本番はもう目の前
タスケさんの一声により、ぼくはデビュー2戦目でマスクド・アンドレに改名することとなった。もちろん小学生という事実は、ほかの先輩たちにも伏せられた。
だから今日の相手・井之上先輩はそれを知らずにぼくへ向かってくる。この日の会場は、体育館ではなく長方形のイベントホールで、初めてイス席形式になっていた。それがギッシリと埋まっている。
同じ東北でも仙台は人口が多い分、たくさん入るんだろうか。イス席は、田舎ではなく都市だから? 売店に集まってくる数も普段とは比べものにならない。
開場前から、ぼくはマスクを被っていた。今日は正体不明のプロレスラーなんだ。見たことのない覆面の男が先輩たちを手伝う姿に、何人かのファンが「あれ誰? あんなのいたっけ?」と指を差す。
アンドレ・ザ・ジャイアントは観客を近づけさせない怖さを発散する人だったから、ぼくはテッドさんに「売店に立ってもいいんですか?」と聞いていた。普通に考えたらイメージが崩れるので避けるはず。
「いや、そこはむしろ売店に出ろ。アンドレ・ザ・ジャイアントのように見せて、どこかそうじゃない部分…つまり突っ込みどころを与えた方が、お客さんは喜ぶんだよ。
その代わり、売店にいる間はいっさい喋るな。そして客に何か言われても絶対にリアクションするな。そんなボーッと立っているデカいのが、試合になったら大暴れするから面白いんだし、売店に来たお客さんは『さっきはあんなに静かだったじゃん!』ってなるわけだ」
いや、本当にこういう発想はぼくなんかじゃ及びもつかない。プロレスって本当に奥深いものだな。
それにしてもマスクを被るのって、やっぱり違和感がある。視界が狭くなったようだし、明らかに注がれる視線の数が増えている。タスケさんは、24時間こうなのか。
そろそろ試合が始まる時間となり、ぼくは売店をあがらせてもらう。すると、1週間前に顔を合わせた記者…確か松島さんが小走りで駆け寄ってきた。
「どうしたの!? なんでマスクを被ってんのよ!」
その場で話すわけにはいかないので、バックステージまで来てもらい「今日から、マスクド・アンドレという覆面レスラーになりました」と説明した。
すでに、事情を知らない先輩たちが顔を合わせるたびに「なんでマスク被ってんの?」と聞いてきていたが、そこは「タスケさんにそうしろと命令されました」と答えてごまかした。それだけで、みんな納得の表情をする。
記者さんにも、同じ言葉を続けた。すると「マスクを被ったらアンドレじゃないじゃん! うーん、記事にしにくいなあ」と頭を抱えつつも「まあ、タスケ社長のアイデアだろ? あの人はいつも思いつきでやっちゃうから。とにかく試合を見させてもらうよ」と言い残し、アリーナへ戻っていった。
違うよ、タスケさんじゃないのに…でも、それで納得させてしまうのって、実はすごいことなんだと思う。
一人で通路へ残されたぼくの耳に、因島さんの前口上が飛び込んできた。一気に緊張が高まり、意味もなくマスクの口元をつかんで正す。
「第1試合、15分1本勝負…はじめに青コーナーより本日デビュー戦、井之上治選手の入場です!」
井之上先輩は、入場曲をかけずにリングイン。あとで知ったことだけど、デビューしたての選手はテーマ曲を使わないらしい。つまり、ぼくの場合は特例だったのだ。
「続きまして、赤コーナーよりマスクド・アンドレ選手の入場です!」