時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。
プロレスは非日常のお祭り
「いやー、今日は残念だったなー。キミの試合を見るために会津坂下まで来たようなものだったのにさー。しかし本当に大きいね、まだハタチで191cmあるんだって?」
「いやいや、何言ってんの松っちゃん! わたくしの試合も載せるつもりで来たんでしょ? ちゃんと見てたの? セコンドのアンドレばっか見てたんじゃないのー?」
全試合終了後、タスケさんに呼ばれたぼくは東京からやってきたという『週刊プロレスラー』の記者さんを紹介された。ひょろっとしていてメガネをかけ、無精ヒゲを伸ばしたままで見るからに睡眠不足っぽいけれど、妙にノリが軽い。マスコミでも、191cmを鵜呑みにするものなんだと思ってしまった。
「この身長にアンドレっていうリングネームなら、それだけで記事になるよ。まあ、来週も取材に来るんで、頑張ってね。期待しているからさ!」
「もう任せて! 松っちゃんもこいつのアンドレっぷりにはビックリするから、間違いなく。それでさ、記事のタイトルなんだけど『タスケもビックリ! 東北の人間山脈、アンドレを発掘!!』なんていうのは…」
ぼくが答えるよりも早く、タスケさんは自分のことのように風呂敷を広げまくっていた。苦笑する記者さんの隣には小柄なおじいちゃんがカメラを構え、何度もフラッシュを光らせている。
そうか、取材って記者だけじゃ記事にならないんだ。写真があってこその雑誌だから…この人がカメラマンさんなのだろう。そのうちぼくのことについてタスケさんに振られると、苦笑いではなく温厚なスマイルで「大変なモンだねえ」と返していた。わー、大人の対応だなあ。
この日も会津坂下から盛岡の合宿所まで夜通しで帰る。プロレス界では、開催地に泊まらず次の目的地へ出ることを「ハネ立ち」と呼ぶらしい。
プロレスについてまるで知らなかったぼくが、専門用語を覚えてしまった。そして雑誌にまで…ほんの軽い気持ちで、夏休みの間にいろんなところへいきたいと思ったのが、こんなことになるとは何がどうなっているんだろう。
「アンドレ、社長から巡業につかず特訓に専念するよう言われただろ?」
運転しながら、宇佐川さんが話かけてきた。ぼくが返事をするよりも先に言葉を続ける。
「特訓は明日の試合が終わって帰って来てからだ。人手が必要だからおまえも来てくれ」
明日は休日ということもあり、夜ではなく日中の試合。だから、真夜中に合宿所へ着いて仮眠程度横になり、朝にはまた青森県のつがる市へ向かわなければならない。
寝る前にぼくは、ひとり居間で壁に貼られた巡業の日程表を眺めた。温海町、雄物川町、本荘、寒河江…声を出して読んでみる。
「あつみまち」「おものがわまち」「ほんじょう」「さがえ」
どれも小学生が読むには難しい地名なのに、いけなくなってしまった。ぼくは明日から厳しい特訓を受けてでも、最終戦まで東北プロレスへいるつもりになっていた。
自分でも、よくわからない。みんな、この夏限りの付き合いだろ。いくらお世話になったからって、義理を感じる必要なんて…そんなささやきを、頭の中で振り切るぼくがいる。
翌日の正午前には「つがる地球村円形劇場」というところにいた。この市も登米と同じで木造町、森田村など1町4村が合併してできたばかりなんだ。
それにともない、この施設も「森田村野外円形劇場」の名称から変わったらしい。そこは客席が半円のすり鉢状になっており、下の平面スペースにリングを組んだ。
すぐ隣にはダムがあって、遠くに山を望む。雲ひとつない晴天に恵まれ、まさに絶景そのもの。ギラつくような真夏の直射日光を浴びつつ、開放的ムードでお客さんも盛り上がった。
試合では、場外乱闘でダムの方までいって崖から落とそうとしたり、客席の上から下まで転がったり。普段はタスケさんがやっていることを、この日ばかりはみんなが率先してハメを外し、お客さんを喜ばせていた。
「そこにリングがあれば、どんな場所でも見せることができる…それがプロレス。お祭りみたいで、こういうのもいいだろ? プロレスはスポーツであると同時に、大衆娯楽なんだ」
テッドさんが自慢げに言っていた。そうだ、ここの人たちだけでなく、東北の皆さんにとってプロレスがやってくるのは、非日常のお祭りなんだ。
太陽に照らされた、嬉しそうな顔・顔・顔。それを眺めているだけで、ジーンと来てしまった。「争いごとは好きじゃない。人間同士が殴ったり蹴ったりして何が楽しい?」という、ぼくのプロレスに対する見方は、もうとっくに変わっていた。
「つがるの皆さんがひとりでもいる限り、東北プロレスは永遠に不滅だーっ!!」
いつもの決めゼリフと同時に突きあげたタスケさんのコブシが、青空へと吸い込まれていった――。