X-JAPANの楽屋周りをウロウロする仕事

リクルートは2年間務めて退職することになる。当時、社内で枡野の直属の上司にあたる人物がいたのだが、その人物が独立するタイミングで、同じく退社をすることになった。

「リクルートって、当時はすごくクリエイティビティを育てる会社というか、どんなに無知な人でも、ほぼ全てを自分でできるようになるように育てる、という方針だったんで、社内にデザイナーもコピーライターもいなかったんです。でも、ひとりだけコピーライト専門の方がいて、僕はその方のアシスタントをしていたんですけど、その方が独立することになったんです。僕もリクルートにそのままいたいって言えばいれたと思うんですけど、ちょっと違うなと思って辞めました」

退職の時期とほぼ同じタイミングで、音楽雑誌への投稿を始める。

「当時、佐伯明さんっていうロッキンオン出身のライターさんが『R&R NEWSMAKER (ロックンロールニューズメーカー)』という雑誌の連載で、文章を募集するコーナーを担当されていたんです。そこがコンテストをやるというので、当時好きだったカステラとかTheピーズ、真心ブラザーズの評論を書いて送ったんです。

というのも、他のライターが、彼らについて書く文章が気に食わなかったんですよ。“僕ならもっとうまく書くのに”とずっと思っていて。募集要項は800字とかだったんですけど、その文字量じゃ収まらないから、5本書いて送りました。コンクールで大賞は取れなかったんですけど、その文章を読んだ編集者の方が連絡をくれたんです。“この人はアベレージが高いから書けるだろう”ということで」

実際には「編集者として入社してくれないか」という要望だったが、枡野はこれを固辞。リクルートを経て、ちょうど自分の能力のなさを痛感している時期だったからだ。

「“僕、編集者は向いてません”と言って断りました。そしたら“じゃあ、いろいろ仕事を紹介するね”と言ってくれて、最初が大好きだった真心ブラザーズのライブレポ。そのほかはインタビューしたり、単行本の構成の仕事をやりました。

当時、たくさんインタビューしたのは橘いずみさんですね。最初の印象は売り出し方が好みじゃなかったのもあって、あまり興味なかったんですけど、音楽も面白かったし、御本人も魅力的な方だったので、どんどん好きになってのめり込んでいって、最終的には橘さん本人の言葉がほぼ出てこないインタビューを書いちゃったんです」

このインタビューは、今でいうところの炎上くらいの反響があったという。知り合いの先輩ライターから、年賀状として「あのインタビューはなんだ」という批判も届いたそうだ。

「僕も若かったから、そのライターに電話して“僕はいいと思ってます”とか言い合ったりして。それが(橘さんの)宣伝になると思ってたんですけど、当時は散々でしたね。でも、のちのち、須藤晃さんという、橘さんのプロデューサーをされていた方にインタビューしたときに、“アレ書いたのあなたでしたか! 面白かった”と言ってくださって、何年か越しに報われました」

それ以外にも人気だったミュージシャンを、“いかにカッコよくて気に食わないか”という文章を書いたり、決して太鼓持ちではない、面白いものになるなら批判も厭わない、という気持ちで原稿に向き合っていたと枡野は話す。

「僕としては毎回工夫して、面白い原稿にしようとしてたんですけど、大らかな時代だったと思います。佐伯さんが“今うちで一番文章うまいのはアイツだよ”と言ってたらしいと、直接じゃないけど聞いたりもしました。ただ面倒なものがこっちに回ってくるんですよ、布袋寅泰さんに取材したいけど海外に行ってていないから、マネージャーさんにインタビューしたり、X-JAPANのインタビューが取れなかったから、本人たちに会わずに楽屋周りをウロウロして1本書く、とか」

クリエイティビティがないのが一番ツラかった

ただ、音楽雑誌で評価されていると言っても、正社員ではなく、外注のライターという立場を選んだ枡野は、次第に生活が困窮していく。

「いつもそうなんですよね、生活のことまで考えずに走り出しちゃうんです。そんなとき、リクルート時代に通っていたコピーライター養成講座のボスに“今、何やってるの? 何もしてないならウチに来ない?”と言ってもらえて。大学も出てないのに、制作会社の正社員にしていただいたんです。

そこは、広告代理店を通さず大手のクライアントとやり取り​するところで、僕が入ったのは大きい会社を相手にする部署だったんです。そのボスは今は消息不明なんですけど、デビューしてすぐに誰でも知ってるようなコピーを考えた人でした。

悪気はないと思うんですが、僕が考えた100個とかのコピー案を全部ボツにして、これだよ!ってご自身で書いたコピーが、僕の考えたのと同じ案だったこともあります。だから、みんな僕には優しかったんですよ、“あれ、枡野が書いたコピーだよな”ってのがわかってたから」

ブラック企業ではなかったが、体や心に不調をきたして辞めていった同僚もいるくらい、ハードな職場だったそうだ。

「そのボス以外は全員優しかったですね。残業になったら残業代が出るから、みんなで晩ごはん食べて、そこから終電まで仕事して、また朝から仕事。弱音を吐いたら、みんなが心配するからと思って、言わないようにしてましたね。ボスは外には優しくて、内部には厳しい人だったので……。

あとは、大手のクライアント相手だと、どんだけ凝ったコピーを考えても、採用されにくいんですよ。例えば銀行相手だと、いろいろ考えても“初任給は〇〇銀行”みたいな、どストレートなコピーが採用される。そういうところもしんどかったですね」

その会社で働きながら、友人がインディーズで作っていた雑誌に寄稿していたことがきっかけで、当時、編集者だった町山智浩氏から声がかかって、『宝島30』で漫画紹介のコラム連載が決まったり、作詞の事務所に通いつめて、提出した詞がシングルに採用されたりなど、ライターとしての仕事は本格化していった。

「そのボスの良いところは、土日であれば他の仕事を認めてくれたことですね。むしろ、応援してくれてました。ライター仕事が軌道に乗った段階で、“辞めます”と言っても温かく送り出してもらいました。

そこからは、『SPA!』に僕のことを買ってくれてる編集の方がいて、その方に仕事を振ってもらったりとか。ドラマ脚本家特集のインタビューを僕が全部担当したときもあったし、ユーミンのインタビューしたりとか。わりと長く担当していたんですけど、著名人の対談相手として誌面に載ってからは、ライター仕事はこなくなりました。僕としてはやりたかったですけど、編集部的にはライターとして発注するのがめんどくさくなったのかもしれないですね」

本当に行き当たりばったり、常に土壇場の人生なんです。あの頃のことを思い出すと、いまだに両親には申し訳ない気持ちになります、と枡野は話した。

≫≫≫ 明日公開の後編へ続く


プロフィール
 
枡野 浩一 (ますの・こういち)
1968年9月23日、東京うまれ。歌人。大学中退後、広告会社のコピーライター、フリーの雑誌ライター等を経て1997年9月23日、短歌絵本『てのりくじら』『ドレミふぁんくしょんドロップ』を2冊同時発売してデビュー。簡単な現代語だけで読者が感嘆してしまうような表現をめざす「かんたん短歌」を提唱。入門書『かんたん短歌の作り方』からは加藤千恵、佐藤真由美、天野慶らがデビューした。笹井宏之、宇都宮敦、仁尾智らの短歌をちりばめた小説『ショートソング』(佐々木あらら企画執筆協力)は約10万部のヒットとなり、若い世代の短歌ブームを牽引。高校国語教科書に《毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである》他掲載。受賞歴は2011年11月22日、明石家さんまが選ぶ「踊る!ヒット賞!!」および2022年3月19日、小沢健二とスチャダラパーが選ぶ「今夜は短歌で賞」。Twitter:@toiimasunomo、note:枡野浩一 Koichi MASUNO