大学を中退し、リクルートや制作会社での仕事を経てライターとしての道を歩いてきた枡野浩一。インタビューとしては型破りな文章などが、時には批判されることもあったが、ミュージシャンへの取材や漫画紹介コラム、作詞の仕事などで実績を積み上げていった。
現在の短歌ブームの礎を作ったといえる枡野は、幼少期から読み書きが得意で、予備校時代には数多くの短歌を作っていたという。デビュー25周年を記念して、左右社から全短歌集を刊行した枡野に、あらためて人生を振り返ってもらい歌人としての土壇場を聞いた。
面識のない人に短歌を送り続けました
ライターの仕事の傍ら、枡野は1995年に第41回角川短歌賞に短歌を応募。賞は取れなかったが、大きな話題となり、歌人としてのキャリアをスタートさせる。
「その賞に応募したことで、『週刊SPA!』で中森明夫さんが特集してくださって、注目はされたんですが、そこからデビュー作『てのりくじら』『ドレミふぁんくしょんドロップ』(実業之日本社)を出したのが97年なので、2年かかってるんですよね。なので、個人的にはデビューは97年と思ってます」
幼少期から作文が評価され、ライターとしては原稿やインタビューが評価され、という枡野にとって、応募した短歌が激賞されたのは、また違った喜びがあったのだろうか。
「18歳の頃に俵万智さんの『サラダ記念日』を読んで、自分でも作ってみたのが『しなくてはならないことの一覧をつくっただけで終わる休日』という1首なんです。そのときはそれで終わってしまって。20歳のときに初めてまとめた短歌連作を角川短歌賞に応募して、最終選考に残りました。
そこから何年かして作ったら、今度はめっちゃできたんです。で、できたものを自分で見ても、俵さんのとも違うし、これが世の中に出ないとおかしい! と思って、25歳くらいの頃ですかね、ハガキにワープロで自分の短歌を印刷して、自分が好きな人に送るっていうキャンペーンをやってたんです。
面識もないのに、はた迷惑なキャンペーンですよね、今考えると(笑)。その送り先に、岡井隆さんって歌人で短歌界の権威の方もいらっしゃったんですが、その方は歌人のなかで一番、僕の短歌を面白がってくれそうな気がしたんです。でも、その方がのちのち、僕が応募した第41回角川短歌賞で唯一、僕に票を入れなかった人なんですよ。“この人は賞って感じの人じゃないよね”って、こっちとしては、賞ほしいのに!
そうやってハガキを送ってたら、どこかの賞の選考のときに“あれ、この短歌、どこかで……”と思ってくれるかなっていう邪な気持ちもあったんですよ。あとあと聞いたら、僕がハガキを送ってたその1年間、事情があって一回も家に帰ってなかったそうなんです、僕のハガキは本人に届いてなかった(笑)」
岡井隆氏は2020年に亡くなるまで、枡野の短歌を新聞や雑誌で紹介し続けてくれたという。ちなみに、そのキャンペーンは当時の年齢だった25歳にちなんで、25人に送ったとのこと。アンパンマンの作者、やなせたかし氏にも送ったという。
興味がない人に意味が伝わらなかったら失敗作
改めて、ここで枡野の短歌観を聞いてみた。
「僕の中では、読んで字のごとし。短歌に興味がない人が読んでピンとこなかったら、それは失敗作なんです。なので、僕の場合は本を読まないような人に見せて、“どう思う?”って聞いて、それで“意味わからない”って言われたら直したりしてました。
正直、文章を書くことも含めて、自分の人生で“これは努力したな”ということが思い浮かばないんですが、自分の短歌を世に出す、というのは一番努力したかもしれません。あ、のちのち、芸人活動を始めたときや、演劇の舞台に出たときも努力しましたね、でも本当それくらいです。『ブラッシュアップライフ』っていう、人生をやり直すドラマがありましたが、何度やり直しても、短歌をやってるだろうし、同じ努力をしていると思います」
しかし、その当時を悔やむように、でも仕方ないように、こう続けた。
「短歌でデビューした当時は、かなり嫌われてましたね。というのも、賞に落ちたことが歌人人生のスタートだったので、“賞に落ちたおかげで、才能のある僕はどんなジャンルでも活躍できるから、賞を取らなくてよかったです”みたいなことを言ってたんです。
けれど、これも別に本音で言ってるわけじゃなくて、少しでも面白がってほしい、みたいな。今となっては、もう少し面白い、みんなが嫌いにならない言い方ができたのになって思いますが……まあこれも、やり直して同じ人生を歩んでも同じ失敗をしていると思います」
周囲から嫌われた影響は大きく、短歌の雑誌に取り上げられることはほぼなかったという。ようやくデビューできたのに、みずから土壇場を作ってしまった枡野。
「歌壇からは無視されましたね。たまに短歌の雑誌に載ってると悪口。のちのち、短歌の評論家の方から直接的に、枡野浩一を無視することで成り立っている歌壇なんだ、とレゾンデートルって言葉を使って説明されましたけど。
そんなときに短歌の雑誌じゃなくても、僕のことを好意的に取り上げてくれた人は未だに覚えてます。あと、僕の悪いところもあって、時折、その歌壇の輪の中にいる人が、僕の手を引っ張って入れてくれようとするんですけど、そういうときに振り払っちゃうんですよね……」