『こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう』
『ツイッター「フォローさせる」は選べない 愛を強要できないなんて』

普段は短歌に馴染みのない人にも、スッと心に染みてくるこれらの歌を詠んだのが歌人の枡野浩一。現代語のみで作られた「かんたん短歌」を提唱し、後続の歌人に大きな影響を与え、若い世代を中心に起こっている現在の短歌ブームは、彼をなくしてあり得なかったと言える。

さらに、歌人としての活動にとどまらず、小説家としても『ショートソング』(集英社)が約10万部のヒットを記録、エッセイや評論の執筆、メディアへの出演など、多岐に渡る活動を行っている。

昨年、デビュー25周年を記念して全短歌集『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』(左右社)を刊行した枡野。マルチに活躍する枡野に人生の土壇場はあったのだろうか。彼の仕事場兼多目的フリースペースである「枡野書店」で話を聞いた。

▲俺のクランチ 第31回-枡野浩一(前編)-

ひらがなだらけの作文で褒められた

「幼少期の記憶が本当に薄いんです。吉祥寺に住んでたこともあるんですけど、普段は全然思い出さないんですが、吉祥寺を歩いていると急に思い出したり。なので、記憶って土地につくんじゃないかと思ってます。小学校1~4年までは、茨城県水戸市に住んでたこともあるんですけど、全然覚えてないですね」

幼少期の記憶について問うと、枡野はこう切り出した。淡々と、ただ淀みなく話すのが彼の第一印象だった。

「学校の勉強も、漢字のテストは0点でした。作文はすごく得意なんで、できるものとできないものがハッキリしてましたね。ひらがなばかりの作文で褒められてました。ただ、勉強ができないからって運動ができるかのかというと、もっと苦手。のちのち『僕は運動おんち』(集英社)という小説を書いたくらいです。まあ、周りの人気はない子どもだったと思います」

「それと、思い出は薄いんですが……」と前置きして、自分の人格を形成しているもののひとつとして“転校”をあげた。枡野の父親は電電公社に勤めており、転勤に伴う転校が多かったという。そして、その行く先々の学校で文章力は褒められ続けた。

小学校は3つの学校に通いました。だから、心のどこかで“仲良くなっても、どうせ別れちゃうし”みたいな意識は、ずっとあったと思います。そういう『転校生チルドレン』という本の企画を提案したこともあるんですよ。宮藤官九郎さんもそうらしいんですが、転校経験のある著名人に話を聞くっていう。僕は転校によって、その場限りの人間付き合い、という考えが強く染みつきました。

作文は変わらずに得意でした。友達の分まで書いたり、自分のを書くのを忘れたときは、白紙なのに、さも書いてるように先生の前で読み上げて、“ちょっと直したいから”と言ってバーっと書いたりとか。歌舞伎の勧進帳みたいに(笑)。本を読むのも早かったですね。図書室から借りた本を返すのがあまりに早いから、先生に“読んでないでしょ!”って疑われて。それで本の内容を答えたら、それでも“前に一度読んでたんでしょ!”って納得してもらえないくらいに早かったです」

その頃に枡野が夢中になったのは、やはり短歌の作家だったのだろうか。

「いえ、当時はまだ全然。小学校の頃は国語の教科書をもらったら、その日のうちに全部読んじゃうとかはあったんですが、特定の作家が好きとかはなかったんです。ただ中学から星新一を読み出して、そこからずっとハマってましたね。ショートショートって、そこを入り口にして、SFの世界に入ったりする人が多いのですが、僕はずっと卒業できなくて、いろいろな作家のショートショートをずっと読んでました。あとは遠藤周作とか北杜夫とか、筒井康隆とか。好きな作家の作品を読み込むタイプでした」

幼少期から読み書きに触れ続けてきたが、作家になりたいなど、そういう夢は持っていたのだろうか。その頃の夢について聞くと「将来の夢って身近な存在、両親などに左右されるところが大きいと思うんです」と枡野は話す。

「文章を書くのは好きでしたが、子どもの頃の夢は“普通のサラリーマン”。9時から5時で仕事をして給料をもらっている父が身近にいたので、自分もそうなるだろうと自然に思ってました。芸能のお仕事をされている人のお子さんが芸能の仕事に就くのは、身近にいるからなんじゃないかなと思います。ミュージシャンや芸人でお金が稼げるなんて、子どもの頃の自分だったら想像もつかないはずだから」

▲父は理系だが自分は計算が苦手だったという