文芸部を追い出され体育祭はボイコット

高校でも、できる教科とできない教科のギャップが激しく、卒業も危ぶまれるほどだったが、現代国語では学年1位を取るなどしていたこともあり、枡野いわく「先生たちも“こんなにできるものがあるなら、卒業させてあげよう”と思ったのではないか」という感じで卒業を果たした。その頃、彼が夢中になっていたのは詩集だった。

「詩人の川崎洋さんによるアンソロジーで、子ども向けに現代詩を集めた詩集があるのですが、それがすごく好きでした。谷川俊太郎さんもすごく好きだったので、サインを貰いに行ったりとか。谷川さんのお父さまが哲学者なんですけど、谷川さんは宇宙人っぽい視点で世界を見ているような感覚があって。

若干、難解な詩もあったりするんですけど、全てひらがなで書かれたものとか。そういうのも好きだったし、あとは詩人としての活動の広さですね。なんでもかんでも詩にしていく。詩人という肩書がありながら、いろいろ書いているのも好きです。実はずっとご近所で、ここにも来ていただいたことがあります」

高校時代は1年から文芸部、と言ってもほぼ枡野ひとりが活動し、ペンネームを変えただけで9割を自分で書いた雑誌を毎月発行していた。

「これが自分の人生を象徴する出来事だと思うんですが、最初は僕ひとりだった文芸部に、僕の活動を見て興味を持った人がどんどん入って、部員が増えてきたんですけど、今度はその新しく入ってきた部員たちと意見が合わなくなって、最終的に部をやめることになるんですよ。クーデターではないんですけど()。思い返すと、僕の人生ってこういうことが多いんですよ。もともと最初にいたのは僕だけど、盛り上がってきたら追い出される、みたいなことがたくさんあります。その最初ですね」

不良でもないのに成績不良者一覧に名前が載っていたという枡野。運動が苦手なことから、嫌いだった体育祭は練習からずっとサボり続けたという。

「体育祭に自分が参加すると迷惑かけちゃうし、練習にいると当日来なかったときに、もっと迷惑かけちゃうから。だったら、練習からいないものとして見てもらおうと思って、屋上で弁当を食べてました。いま思うと、ヤンキーとかじゃないのに、ことごとく反抗する僕を見て、先生も不思議だったと思います。

でも、そのときにサボることの喜びを感じたというか、縛られずに自由に動くことの喜びを知ってしまったんですよね。学校に講演会とかで呼んでもらったときに、この話をするんですけど、最初はすごく丁寧な校長とか教頭とかが、帰る頃は目も合わせてくれなくなります(笑)。なんてことを生徒に言ってるんだ!って」

▲この話は学校の講演会では受け入れられないですよね(笑)

大学をやめてギリギリの精神状態で創作活動

その後、枡野は専修大学の経営学部に合格する。

「これも小論文と英語だけの試験だったんです。英語ができたって印象はないので、よっぽど小論文がよかったんだと思います。でも、すぐに授業についていけなくなって……大学では文学研究会に入ってたんですが、そこは赤瀬川原平さんのファンが多くて。赤瀬川さんとは近所で、僕の妹と赤瀬川さんの娘さんが仲良しだったんです。

そんな縁もあって、赤瀬川さんを学祭の講演会に呼んで、そのチームの一員として立て看板を作ったり、小冊子を編集したり。あまりにものめり込み過ぎて、授業に出なくなって、大学をやめちゃったんです」

別の大学を再受験したが、うまくいかない。気づいたら、20歳の予備校生になっていた。

「高望みしてたんですかね、これは50を超えた今でも親不孝だったなと思います。大学に入って、そのままその道を進んでいくと思ったら、大学をやめて、そのまま就職せずに働いちゃってる。

ただ、その予備校時代に短歌がたくさんできたんですよ。別に誰から言われたわけじゃないんですけど、高校時代に雑誌を作ってたから文章は書いてたし、一応は予備校生だから、書く時間は電車に乗ってるときだけって決めていたんです。そうすると小説を書くほどの時間はないから、作詞をしたり、短歌を書いたり。自分の中で意識はなかったですけど、かなりギリギリの精神状態でしたね。あのときが一番、生命の危機を感じていたなと、今となっては思います」

予備校生としての生活は、枡野に何かしらの危機感を与えたようだ。その頃、書いた作詞はコンテストに送ると、たびたび1位に選ばれ、雑誌『現代詩手帖』でも、投稿したものはほぼ全て掲載される、という才能の片鱗を見せていた。

予備校生を経ての再受験も結局は失敗して、アルバイトでリクルートに入ったんです。アルバイトといっても朝から晩まで働いて、ほぼ毎日出社してました。当時はバブルだったのもあって、給料はすごく良くて。高卒の子もいれば、東大卒の子もいるっていう不思議な会社だったんですが、最初の1年間は社員さんのアシスタントみたいなことをしてました。ただ僕、雑用が本当に苦手で……。

そんなときに、社内で能力テストがあったんです。そのテストの結果で、向いてる能力の部署に移動させるって仕組みのある会社で、たまたま書いた作文がすごく良かったみたいで。正直、1年経った時点で、“雑用は苦手だし、全然貢献できてないからって辞めます”と言ったんです。そしたら、会社の人が“作文の成績が良かったし、一生懸命やってるから、部署異動してみる?”って」

新たに配属になったのは、社員の教育をする部署。そこで行われた勉強会をレポートして、社内向けの新聞を作る仕事だった。

「これが向いてたんです。高校の頃からマイワープロを持っていたんで、それを持ち込んで、ずっとイヤホンしながら記事を作ってました。他のアルバイトの人からは、たぶん楽な仕事してるように見えたんでしょうね。嫌がらせされたりとか、僕がポッキーを食べながら仕事してたら、“ポッキーは食べないほうがいいと思うよ”って言われたり。

そうやって教えてくれた親切な人のことはエッセイにも書いてます。海外に恋人がいて、バイトをしてお金がたまったら会いに行って、お金がなくなったら日本に帰ってきて、またバイトするっていう、ドラマの主人公みたいな人でした。僕のことをいじめてた人も、体を壊して辞めちゃうんですけど、辞めるときに使ってた冷蔵庫くれて、良い人だったんだって気づいて。そのときに、“あ、自分が生意気なだけだったんだ”って思いました」