大河ドラマ『どうする家康』でも、第17回「三方ヶ原合戦」と第18回「真・三方ヶ原合戦」の2回に分けて放送されたのが、「神君唯一の敗北」と喧伝されている1572年に起きた三方ヶ原の戦い。阿部寛さん演じる武田信玄の圧倒的な存在感が際立っていました。しかし、徳川家康が“唯一の敗北”というのは事実なのでしょうか。憲政史家・倉山満氏が、歴史の勝者となった三河武士団のプロパガンダを暴きます。

現地に行けばわかる姉川の戦いの真実

徳川家康が織田信長を手伝った戦といえば、姉川の戦いがあがります。

通説では姉川は、信長の畿内での覇権をほぼ決めることになった戦として特筆大書されます。教科書でも必出で「元亀元(1570)年、姉川の戦い。織田信長・徳川家康の連合軍が朝倉義景・浅井長政の連合軍を破る」と丸暗記させられます。もっとも、朝倉義景は姉川に来ていません。

19世紀に編纂された徳川の公式歴史書『徳川実紀』では、姉川、三方原(1572年)、長篠(1575年)を「東照神君(家康)の三大合戦」と位置づけています。

どうしてこれらを強調しなければいけないか、そのこと自体がプロパガンダです。通説によると、姉川の戦いで信長は十三段構えの陣を敷いて浅井勢を迎え撃ちます。浅井は十三段構えの十一段目までは突破したけれども、援軍にきた家康が朝倉を蹴散らしたので形勢は一気に逆転、織田・徳川連合軍が大勝した、となっています。

さて、ここにはどんな噓が仕込まれているでしょうか。

第一の噓。通説として伝わる十三段構えの布陣が可能な広い場所は、姉川にはありません。『センゴク』(週刊ヤングマガジン2004〜07年連載/講談社)で有名な漫画家・宮下英樹氏が、実際に姉川に行って確認してきました。400年以上、誰も検証してこなかったわけです。研究者は知っているのでしょうか。

▲滋賀県長浜市 姉川古戦場跡 写真:マッケンゴー / PIXTA

第二の噓。最初に「おまえは友軍なんだから、後ろで見ていていい」と家康は言われたけれども、「いや、それでは援軍に来た意味がない」と信長に食い下がり、それではというので、あえて、数の少ない家康軍が大軍の朝倉軍に向かったものの、一方で信長は、少数の浅井軍にあやうく殺されそうになった、ということになっています。

この話の出典は、徳川側の史料『三河物語』でしょう。『三河物語』で家康は、《三十歳にもならないものが、援軍にやってきて一番隊を命じられず、二番隊だったとのちのちまでいわれるのは、いやです。ぜひ一番隊をお命じください。そうではないなら、明日の合戦には、参戦しません》(『現代語訳 三河物語』)とまで言っています。

信長は《そんなに思っていてくれるのはありがたいことだ。それなら一番隊をたのもう》などと答えています。

この話が本当だとすれば、どうして信長は不利に陥ったのでしょうか。

要するに、桶狭間の戦いと同じことで、浅井が奇襲をかけて織田に突っ込んだという説に分があるようです。浅井の奇襲で信長は右往左往するものの、なまじっか数が多いので助かっていたところを家康が乱戦に持ち込んで勝った、というのが実際ではなかったかと考えられています。

「大勝した」というのも無理があります。だいたい、姉川の戦いに当主の朝倉義景は来ていません。来ていないこと自体は義景の事情というものでしょうが、姉川の3ヶ月後には、浅井・朝倉は普通に軍事行動しています。延暦寺と連合して、摂津に攻め込んだ織田本隊を襲っていたりするのです。

それどころか、第一次信長包囲網を敷かれた信長は、『三河物語』によれば最後には《わずか一万余以下の兵ではとてもたち向かえないと、和議を申しこみ「天下は朝倉(義景)殿がおとりください。わたしは二度とそんなことは望みません」と起請文をお書きになって和睦を結んで岐阜へ引きあげ》ています(『現代語訳 三河物語』)。

出典が出典なので本当かどうかはわかりませんが、『大間違いの織田信長』(ベストセラーズ)でも書いた通り、信長はなにしろ土下座がうまい人なので、もし本当にこれをやったのであればたいしたものです。

つまり、姉川の戦いは、単なる小競り合いなのです。そんなものが特筆大書され、いまだに歴史教科書には必ず載っています。中学受験にも普通に出る、ということは、小学校でも教えられます。いまだに日本人は三河武士団のプロパガンダに騙されている、の筆頭例でしょう。

三方原の戦いも大噓だらけ?

信長は第一次包囲網のなかで戦っていきますが、結局、信玄が加わって第二次包囲網になった瞬間に大ピンチとなり、味方はもう家康だけ、という状況になります。それで、元亀3(1572)年の三方原の戦い(武田軍対徳川・織田軍)に援軍を回すことができずに、家康はあえなく大敗、ということになります。

私は『並べて学べば面白すぎる 世界史と日本史』(KADOKAWA)に、こんなことを書きました。近現代史の感覚でいえば、古代史どころか中世史、戦国時代の歴史だって「仮説の塊」です。なぜか最近は一次史料のごとく重用される『信長公記』など、現代の感覚でいえば「総理バンキシャ回顧録」の類です。武田信玄と徳川家康・織田信長のあいだで行なわれた三方ヶ原の合戦に至っては、完全に信頼できる記述など二行で終わりです。

元亀3年12月22日、三河国三方ヶ原で武田信玄が、徳川家康と応援に来た織田信長の軍を破った。

それ以外は、信憑性が決して高くない情報を精査し、仮説を組み立てているだけです。三方原の戦いに関して確実に言えることはこれだけなのです。

いちおう、通説として言われていることをまとめておきます。

武田軍の大軍に相対した少数の徳川軍に、信長は少数の援軍しか送れなかった、そこで家康は追撃して奇襲しようと思ったが、武田軍は三方原という台地で魚鱗の陣で待ち構えており、家康は陣を広げて対抗したけれども軽く屠(ほふ)られた、ということになります。

しかし、じつは信長は十分な援軍を送っていた、というのが最近の研究です。ここは磯田道史氏の論を信じていいと思いますが、『日本史の内幕』(中公新書)で史料検討の結果「家康は信長から2万人におよぶ援軍をうけていたことになる」としています。通説では3千人です。

信長はちゃんと援軍を送っていたのに、家康が信玄より戦が下手だったので負けたのです。

友達と腹に一物を抱えながらつきあい、そいつが死んでからは好き放題に書きまくった、ということになるでしょう。

家康は命がけで三方原の戦場を離脱し、その際に脱糞までしたとか。その様子をNHK大河ドラマ『徳川家康』で滝田栄がリアルに再現していました。今年の『どうする家康』ではそこまで描かれませんでしたが。さらに、敗戦を自戒した家康が、自分の姿を絵師に描かせた「顰像(しかみぞう)」が伝わっていますが、これもどうやら伝聞に伝聞が重なった噓ではないか、との説もあります。

▲徳川家康三方ヶ原戦役画像 出典:徳川美術館蔵

とにもかくにも、「神君唯一の敗北」とされるのが、この戦です。確かに自分で戦って戦術的に負けたのは、このときだけかもしれませんが、小競り合いでは三河武士団はけっこう負けています。