ロシアとウクライナの戦争でも重要視されたのが情報。真実なのか嘘なのか、よくわからないニュースもネットやSNSで拡散されている。しかし、日本政治外交史の専門家である井上寿一氏いわく、こうした戦争の際のフェイクニュースは今に始まったことではないという。日本が敗戦した直後の様子について井上氏が語る。
※本記事は、井上寿一:著『戦争と嘘 -満州事変から日本の敗戦まで-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。
デマも真実も入り交じっていた終戦直後の日本
太平洋戦争の敗戦直後の混乱について、ジャーナリストにはどう見えていたのか。
以下では当時、毎日新聞社の社会部長だった森正蔵の日記から重要なエピソードを引用する。
8月15と16の両日、新聞は発行され、ラジオ放送も流れていた。しかし「流言は巷に溢れて」いた。房州の沖には米軍の大艦隊が入り込んでいる。横浜に米艦が入って兵力を揚げた。どこそこが米軍の占領地域になる。別のどこそこが重慶軍(中国の蔣介石軍)の占領地域になる。
これらはすべてデマだった。占領軍は日本本土に上陸していなかった。
8月24日になると、外地の様子が伝わってくる。満州に入ったソ連軍が「略奪、暴行等の蛮行を続けている」。ハルビン、新京(しんきょう)、奉天(ほうてん)はソ連軍に占領された。旅順(りょじゅん)、大連(だいれん)にもソ連軍の空挺部隊が舞い降りてきた。北朝鮮もソ連軍がつぎつぎと押さえている。
これらの情報はおおむね本当だった。
二日後の日記にも同様の様子が記されている。
「満州の事情は大ぶんひどいらしい」
ソ連兵の暴行が伝えられる。森は軍人を非難する。
「醜態を現わしているのは、関東軍の将校たちで、いち早く三個列車を仕立てて自分たちの家族をまず避難さした。満鉄社員、満州国の日系官吏がそれに続いて家族を避難させ、取残された一般邦人がひとりさんざんな目に遭っている」
これも本当だった。
「押しつけ記事」など占領当局からの指示もあった
ダグラス・マッカーサーが厚木の基地に降り立ったのは、8月30日のことである。降伏文書の調印式は9月2日で、ここから占領が始まる。
森は日記に米兵の「蛮行」を記録する。日比谷公園で自動車を強奪された。神宮外苑で散歩していた兄妹を米兵が襲って、兄を射殺した。毎日新聞社内でも米兵が腕時計を強奪した。森の記述ぶりからすると、いずれも本当だったようである。
9月3日に森が出社して新聞を読むと、『朝日新聞』が「外人兵の日本婦女に対する暴行事件」を取り上げていた。森はこの種の事件の取り扱いには慎重を期した。人心の動揺や「一部人士(じんし)の激昂」を招くのではないかと危惧したからである。
さらにこの日、日本政府の当局から新聞各社の社会部長に対して、「外人兵の暴行」をめぐって「煽情(せんじょう)的に記事を取扱わぬように」との指示があった。
9月15日になると、『毎日新聞』は占領当局からの「押しつけ記事」である「比(フィリピン)島における日本軍の暴行」を掲載した。占領当局からすれば「今日の日本の新聞を見ると、その内容に敗戦国らしいところが些(いささ)かも現れていない」からだった。
森に言わせれば、新聞にとって戦時中は受難の時代だった。「軍閥と官僚との桎梏(しっこく / 手かせ足かせ)のもとに、悩み多い歩みを続けて来た」。敗戦後、今度は「米軍の進駐下に第二の受難時代を迎えた」。