8月23日に墜落事故で死亡したワグネルの創業者プリゴジン。プーチン大統領が関与しているという暗殺説や生存説など、さまざまなニュースが流れている。日本政治外交史の専門家である井上寿一氏いわく、こうしたことは第二次世界大戦当時の日本でもあったという。

※本記事は、井上寿一:著『戦争と嘘 -満州事変から日本の敗戦まで-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。

敗戦直後にアメリカ軍が鎌倉に上陸!?

第二次世界大戦の敗戦直後の混乱は、さまざまなデマや流言飛語を生んだ。

作家の大佛(おさらぎ)次郎は日記に克明な記録を残している。

大佛は玉音放送が流れた8月15日の当日の日記に「世間は全くの不意打」のようで、人によっては「全く反対のよき放送を期待」する向きもあったようだと記している。

午後3時の「報道」(おそらくラジオ放送)によれば、阿南陸相が自刃した。杉山(元)前陸相も自刃と伝えられたものの、虚報らしいと大佛は記している。事実、阿南は玉音放送を聞くことなく、この日、割腹(かっぷく)自殺を遂げている。杉山が自決したのはこの日ではなく、9月12日のことで、拳銃自殺だった。

翌16日になっても、「依然敵数機」が入って来た。高射砲が鳴った。鎌倉の材木座付近に海軍機が飛来してビラを撒いたという。ビラは「海軍航空隊司令」の名で「降服せずあくまでたたかう」旨の内容だったようである。

鈴木(貫太郎)首相の家が憲兵に焼かれたとの伝聞もあった。参謀本部では割腹する者が続出したとのことだった。しかし大佛に真相はわからなかった。朝鮮人が乱暴したり、食料を奪取したりするのではないかと人々は怯えているようだった。

アメリカ軍が明日にも上陸(それも大佛が住む鎌倉に)するらしく、「女子供を避難させる要あり」との話も聞いている。工場に来ている巡査も「デマがとめどもなく飛び処置なし」と語ったようである。

▲敗戦直後にアメリカ軍が鎌倉に上陸!? イメージ:ringoame / PIXTA

さらに17日には、神奈川県の当局による「婦女子逃げた方がいい」との告知が「誇大につたわり敵の上陸が今明日の如く感ぜられ駅に避難民殺到」の有様だったようである。

翌18日になっても、「敵機来たり高射砲戦時よりさかんに鳴る」状況だった。

大佛は8月20日の日記に記す。

「敵占領軍の残虐性については軍から出ている話が多い」

大佛は推測する。

「自分らが支那(しな)でやって来たことを思い周章(しゅうしょう / あわてている)しているわけである」

旧軍からのビラの撒布は、その後も続いた。

名古屋で撒かれたビラには「敵は陛下をマリアナかどこかへ拉致する、女たちは上陸軍に強姦される、国民は最後まで軍を支持せよ」とあった。

これらのビラの内容はことごとくデマだった。戦時中の軍部の嘘が暴かれていく。大佛は8月22日の『毎日新聞』を読む。そこには長崎の惨状の写真が掲載されていた。「大本営の発表は損害は軽微なりとありしが、実は一物も存(そん)せざるような姿」だった。

大佛は憤り呆れる。

「どうしてこういう大嘘を平気でついたものだろうか。これが皇軍なのだから国民はくやしいのである」

もちろんデマにうんざりしている人いた

軍部への怨嗟(えんさ)は東条英機伝説を生む。

「満洲に夫婦で逃げ、東條は殺され、女房は追返されたという説、東條が狂人を装っていると云う説、盛岡に隠れているという説」などがあった。

いずれも嘘で、東条は東京にいた。

米軍が東京に到着した際に、天皇退位との風説が流れた。大佛は「発表は(9月)9日らしい」と記す。

これも虚報だった。

進駐軍の上陸の日が迫っていた。

大佛と同じ鎌倉に住んでいた作家の高見順は、鎌倉のある町の町内会長が「五歳以下の子供をどこかへかくせ、敵が上陸してくると軍用犬の餌にするから」と言いふれ歩いていたと知る。

高見は取り合わない。

「なんというバカバカしい、いや情けない話であろう」と日記に記すのみだった。

▲もちろんデマにうんざりしている人いた イメージ:hanahal / PIXTA

このデマはまったくの荒唐無稽にちがいなかった。

しかし日本は有史以来、初めて占領軍を迎え入れることになったのだから、さまざまなデマや流言飛語が生まれたのもわからなくはなかった。