後悔も懺悔も両方ある20代の日々
若き日の樋口が送った日々は、彼の私小説とも言うべき『ルック・バック・イン・アンガー』に詳しい。舞台はアダルト系出版社。社内は荒唐無稽でセックスが横行し、血なまぐさい事件が起こることも少なくない……そんな内容だ。当時のコアマガジンの内部は、同作に投影されていると受け取るのは考えすぎか?
「『ルック・バック・イン・アンガー』は、かなり抑えて書きました。時効になっていないことも多いので……」
とはいえ、同作は余裕でエグい。ひょっとして、樋口はあえて踏み込んだのではないか? あの小説を書くことで、コアマガジン時代の日々にけじめをつける意味合いがあったのではないか? そんな勘繰りを本人にぶつけると、樋口はこう答えてくれた。
「でも、僕はいまだにコアマガジンが好きですし、今もあそこにいた人たちを同志だと思っています。僕は高校でも大学でも青春を送れなかった人間ですが、23歳の終わりにコアマガジンに入り“やっと、ここで青春が始まった!”と思ったぐらいです。僕にとっては本当にオールドスクール、いにしえの学び舎なんです。あそこでは、毎日違うことが起こっていた。本当に毎日が土壇場でしたし、事件が起こった。20代は同じ日が1日とてなかったです」
樋口にとっての“青の時代”とも言うべき、コアマガジンの日々。そんな煌めきのワークスを本人に総括してもらおうと思う。樋口にとって、コアマガジンとはなんだったのだろう。
「良い思い出もあるし、イヤな思い出もある。後悔も懺悔も両方あります。美化はできないですね。今、これだけパワハラやらセクハラやらコンプライアンスが問われている世の中で、自分もイヤな目には遭ったけれど、自分もやっぱり他の人に強いただろうなぁと思うので。無傷なわけがないよなって。軍から調教を受けた人間が“自分はいい兵士であろう”“後輩や周囲にいい人でいよう”と心掛けたとしても、必ず誰かを傷つけてしまっただろうなって。そんなに自分が無拓な人とは思えないですよ」
コアマガジンの日々があるからこそ、今の樋口毅宏がある。そう彼は認めてくれた。
白石一文が「キミは才能がある」と言ってくれた
雑誌編集者となり、出版界でのキャリアをスタートさせた樋口。じつは、その頃から「小説を書きたい」「作家になりたい」という思いを抱いていたそうだ。
「まだ自分には明らかに人生経験が足りなかったんですよ。僕は大学生の頃に芥川賞受賞作品を全部読んで、30代の作家が書いた小説はまだ芯が定まってなく、形になっていないのがわかったんですね。40歳を過ぎてからの作品のほうが“ちゃんと落ち着いてる”という印象を受けたんです」
しばらく雌伏の時を過ごしていたが、樋口の運命が動き出したのは2002年。『ロッキング・オン』編集長の山崎洋一郎が、コラム「激刊!山崎」で作家・白石一文を激推ししたのだ。
「“白石一文という作家がいる”と、すごい筆圧の強さで山崎さんが書かれていた。これは読まなきゃいけない! と思って読んだら、ズブズブはまっていきました。で、僕も『BUBKA』のカルチャーページで白石さんにお会いしました。僕が“作家になろう”と考え始めたのは、白石さんに会ってからです。
彼にインタビューするとき、“こういう者です、よろしくお願いします”って雑誌と名刺を差し出したら、いきなり“あなたはどんな小説を書いているんですか?”と言われました。もう、びっくりしちゃって。当時、僕は一緒に住んでいる彼女にさえ、小説を書いてることを話してなかったので」
コアマガジンにいながら、密かに小説を書いていた樋口。その内容は、本人いわく「石原慎太郎の亜流みたい」だったそうだ。
「小説家になろうと思っても実力はないし、自分でも進歩していないとわかっていました。頭の悪い大学にしか入れなかったぐらい勉強もできませんでした。だから“自分ごときが小説家になんてなれない”という諦めの気持ちが、その頃は大きかった。そして、そのインタビューから白石さんとの付き合いは始まりました。白石さんから“1年かけて1000枚分の小説を書いて僕に送りなさい”と、宿題を出されたんです」
ここから、樋口の運命は急激に動き出す。樋口は1000枚分の小説を書き上げたのだ。
「原稿を送ってから、しばらくしても連絡がありませんでした。諦めていたところに白石さんから電話があって。興奮気味の声で“今、ちょうど読み終わったところだ。キミすごいよ。才能があるよ”と言われたんです。残念ながら、その小説は出版することができなかったですが。
だけど、そのときに“次は枚数を半分にし、もっと読みやすく、スピード感があって、とにかくおもしろいのを書こう”と思ったんです。それででき上がったのが『さらば雑司ヶ谷』。あの小説は1か月くらいで書き上げました。完成したのは、ちょうど会社の退職日でした。
僕はコアマガジン時代、エロ本やゴシップ誌に携わった。やり甲斐はあったけど、もっと自分というものを打ち出したかった。表現欲求ですね。ずっと、焦ってもがいていました。ところが、そこから幸運にも白石一文という人に出会えた。
白石さんからは“小説を書け”と言われたものの、小説の書き方なんて僕はわからなかった。それまでもトライしていたけどうまく書けなかったし、途中で投げ出していた。“こんなことをやって何になる?”と、キャンパスに向かう市ノ瀬利彦(『さくらの唄』)と同じような気持ちでした。あの頃は人生で最大の土壇場でした。
でも、1作目を書き上げてからは不安はありませんでした。まだ本は出せていないけど、会社にはすでに“辞める”と伝えた。もう、37歳にもなっていた。だけど、白石一文が“キミは才能がある”と言ってくれている。だから、“自分は絶対に大丈夫だ”という確信がありました。
僕は白石さんがこの世で一番素晴らしい作家だと思っています。僕の息子の名前は白石さんから取りました。白石さんはイヤがっていたけど(苦笑)」
“恩師”とも言える白石の言葉によって、樋口は人生最大の土壇場を乗り越えることができたのだ。