つらい状況を耐えたその先に本当のチャンスがやってくる。ガラガラの会場、ブーイングの嵐、会社の身売り……。存亡の危機にあった新日本プロレスを支え続け、プロレスファンからの罵倒を乗り越え、不動のエースになった「100年に一人の逸材」は、逆境の中でもがきながらも、言葉を力にして立ち上がった。棚橋弘至が、その“力強さ”と“怖さ”を語る。
山あり谷ありだった2 0 1 8 年
僕にとって2018年は特別な年になった。山あり谷ありのプロレスキャリアの中でも、とくにアップダウンの激しかった一年だったと実感している。
1月にヒザを壊すも、猛練習に取り組み、3月の『NEW JAPAN CUP』〔※ 毎春恒例のトーナメント〕で復帰。優勝は逃すも、決勝進出を果たしたことで復活の狼煙を挙げることができた。
そして5月4日、僕はオカダ・カズチカが持つIWGPヘビー級王座に挑戦した。それから数日が経ち、試合の動画を観ていたら解説の金沢克彦さんが、僕に対する声援を「強過ぎるオカダに対しての、ホウガンビイキ的な意味合いもあるかもしれませんね」と発言された。
それを聞いた僕は「はて? ホウガンビイキって何? ハンガンビイキなら知ってるけど」と気になり、すぐに調べてみた。
「判官贔屓(ほうがんびいき)」:悲劇的英雄、判官源義経に同情する気持ち。転じて、弱者、敗者に同情し声援する感情をいう(三省堂『大辞林』より)
「あっ、これはホウガンとも読むのか」と感心したが、大事なのはその意味だ。「弱者、敗者に同情し、声援する感情」、か……。果たして本当にそうだったのか?
このときのIWGPヘビー級王座への挑戦は16年1月4日の東京ドームでオカダに敗れて以来、2年4カ月ぶりと、ずいぶんと時間がかかってしまった。そもそもこの年の『NEW JAPAN CUP』で優勝していれば、きっと誰もが納得する挑戦だったと思う。
オカダは4月1日の両国大会で優勝者であるザック・セイバーJr.の挑戦を退け、IWGPヘビー級王座の連続防衛記録11回を達成した。この“V11”は2012年に僕が達成した記録であり、オカダに並ばれてしまったわけだ。
その瞬間を観た僕は、気づけばリングに立ってオカダと向かい合い、マイクを持ってこう言った。「世界中探しても次の挑戦者、俺しかいねぇじゃん!」――。
そう言い切れるシチュエーションは揃っていた。6年前、僕の連続防衛記録を止めたのがオカダだったからだ。6年にも及ぶ棚橋とオカダの物語。しかも、その時点での対戦成績は4勝4敗2分での五分。我ながら「こんなドラマチックなシチュエーションはないな」と思ったほどだ。挑戦者に最も大切なことは、見てくれているファンの方々に期待感を抱かせることだ。
「○○がチャンピオンになったら新日本プロレスはもっとおもしろくなる!」――。
果たして今回の僕の挑戦にその期待感があったかどうか? 福岡で起きたあの大きな「棚橋」コールは、どういった意味合いだったのだろうか? 判官贔屓? 最後のチャンス? 思考はぐるぐると回った。
そんなときだった。昔からの友人である福岡市市長の高島宗一郎さんの言葉がパッと浮かんだ。
「会場でも棚橋グッズを身につけて応援してくれるファンがいるでしょ? そういう人たちはタナに活躍してほしいけん、勝ってほしいけん、棚橋Tシャツを着てくれるんよ!」
探していた答えはとてもシンプルだった。応援している選手に勝ってほしい、ただそれだけなのだ。
連続防衛記録更新、2年4カ月ぶりの挑戦、4勝4敗2分の五分……、これらの要素はすべて付加価値で、気持ちを高めるためのプレイヤー側の問題なのかもしれない。長く続けていると、見失いがちな視点だが、ファンはただただ棚橋に勝ってほしかったのだ。
高島市長と食事をした時に出た、この言葉により、試合前に感覚を取り戻していた。だから、試合開始と同時に始まった大タナハシコールを前向きに全身で受け止めた。ファンはけっして判官贔屓ではなく、ただ勝ってほしいのだ、と。
結果、僕はオカダに負けた。オカダは強かった。しかもまだ余裕すらあったように感じた。でも、僕には「これからどこに向かえばよいのか?」などという迷いはなかった。
「これからも応援してくれるファンと心から喜べる日が来るように、チャンピオンを目指して精進するだけだ」と、自然にそう思えた。
このオカダ戦から2カ月後、今度は“真夏の最強戦士決定戦”と言われている『G1CLIMAX』を迎えた。
『G1』は1991年の初開催以降、年一度開催されるシリーズで、主力レスラーたちがリーグ戦でしのぎを削るビッグイベント。当時の社長であった坂口征二さんが競馬ファンだったことから、この大会名になったそうだ。
僕は『G1』に2001年から17年連続でエントリーしている。ここ数年の大会の傾向としては、全国の主要会場を約1カ月かけて巡業。厳しいシングルの連戦が続く過酷なシリーズだ。その対価として、この大会の優勝者には敵味方、好き嫌いを超えて惜しみない賞賛が無条件で贈られる。
歴代優勝者には蝶野正洋さん、武藤敬司さん、橋本真也さん、藤波辰爾さん、長州力さんと時代を彩った名だたるレスラーが並ぶことからも、その権威の高さが伝わるのではないだろうか。
僕は学生の頃からプロレスファンだったので、当時から『G1』を観にいっていた。
大学1年生だった1995年は両国国技館5連戦をすべて観戦。武藤敬司さんの初優勝に熱狂した。あのときはお金もなかったので、青春18切符で大垣発の夜行列車に乗り東京へ。チケットもリングサイドではなく2階席の後方だったけど、見届けた達成感が凄かったことを覚えている。
その7年後の02年に僕は『G1』初出場。当時、地元の友達に「オレ、『G1』出るよ!」と電話したのを思い出す。出場すること自体が名誉と言える大会なのだ。
結果、僕はこの18年の『G1』で3年ぶり三度目の優勝を果たすことができた。
ケガでも、不調でも、「エース」は勝利を目指すのみだ。
※本記事は、棚橋弘至:著『カウント2.9から立ち上がれ!(マガジンハウス刊)』より、一部抜粋編集したものです。