つらい状況を耐えたその先に本当のチャンスがやってくる。ガラガラの会場、ブーイングの嵐、会社の身売り……。存亡の危機にあった新日本プロレスを支え続け、プロレスファンからの罵倒を乗り越え、不動のエースになった「100年に一人の逸材」は、逆境の中でもがきながらも、言葉を力にして立ち上がった。棚橋弘至が、その“力強さ”と“怖さ”を語る。

新日本プロレス棚橋弘至の カウント2.9から立ち上がれ! 第8回
 

ヤングライオンたちへの期待

遡ること20年前、デビュー戦を明日に控えた棚橋弘至22歳は深夜の道場で、筋肉をパンパンにはらして大きな鏡の前に立っていた。

1999年3月に90㎏で入門してから半年。筋量だけで12㎏増量し、102㎏になった自分の姿を見ながらこう思った。

「フッ……。明日、プロレス界に衝撃が走るぜ!」

そんな思惑とは裏腹に、まったく衝撃は走らなかったものの、身体ができ上がっている若手選手としてある程度の注目を集められたと思う。

入門してすぐ、山本小鉄さんにこう言われた。

「いいか棚橋、お客さんのチケット代の半分は身体を見にきていると思えよ。毎日鍛錬しろよ!」──。

この一言は今でも自分の中で大切な言葉として残っている。

なぜならば身体に練習の成果が出ていれば、言葉にしなくても試合への意気込みが伝わるということになるからだ。

新日本プロレスに「肉体作りにプロテインを取り入れる」という文化を持ち込んだのは、何を隠そうこの僕だ。若手時代の少ない給料をすべてサプリメントやプロテインに注ぎ込んだ。

いまや新日本プロレスの寮にはヤングライオンのほかにも、海外留学生やデビューを目指す練習生たちなど、大勢が生活を共にしている。これは非常にいい傾向と言える。

もちろん、所属選手が増えると試合の出場機会も減ってしまうが、その限られた枠を巡って競争意識が芽生える。そして、何よりこの若手たちが5年後、10年後の新日本プロレスを支えていくスター選手となっていくからだ。

僕のデビュー戦の相手は真壁刀義さん(当時・伸也)だった。このカードは数年後、メインイベントで組まれるようになった。

プロレスの世界では「あの日の第1試合が数年後のメインに」ということが珍しいことではない。だからこそ、ファンの皆さんには第1試合から注目してほしい。

これだけ若手が多いと、目立つには人一倍、いや人三倍の努力とアピールが必要になってくる。なぜなら、当たり前のことだがベースとして、全員ががんばっているからだ。

その中で、誰よりも声を出す、誰よりも多くスクワットの回数をこなす、誰よりも率先して受け身を取る……。

いい仕事をするためには、周りからの信頼を得ることが重要になる。先輩に認められ、ライバル競争から誰が一抜けして光を放つのか。かつてのヤングライオンとして、僕も楽しみにしている。

僕はデビュー当初から目立ってやろうという野心しかなかった。それは練習量に裏打ちされた自信があったからだと思う。

チャンスはいつ来るかわからない。だからこそ肉体を磨き上げ、技の鍛錬をし、つねに準備を万全にしていた。

僕は若手のフリをしつつ、常に「いつでも飛び抜けてやる!」と虎視眈々と狙っていた。

実際、若手選手の象徴である黒のショートタイツを履いていたのは半年足らず。イチ若手というイメージから脱却するために、デビューして一年後にはシレッと赤のショートスパッツを身につけていた。

また、僕は海外修行に出されることなく、国内でスクスクと育ってしまったので、結果的にそのぶん早くチャンスを手にすることもできた。

一方、今の新日本プロレスには、「若手が海外遠征のチャンスをつかみ、変貌を遂げて凱旋帰国。そして、実績を積み重ねてスターの道を切り拓く」という流れがある。

代表的なのはオカダ・カズチカだ。彼は凱旋帰国した最初のタイトルマッチで棚橋弘至を倒し、一気にスターダムに上り詰めた。

きっと、ヤングライオンたちも海外遠征の機会をいまかいまかと待ちわびているに違いない。

今の若手選手たちは、本当によく練習するし、素直に感心する。

ただ、その中に野心を秘めた棚橋みたいなふざけた奴が出てくると、さらにおもしろくなるんじゃないかと密かに思っている。

※本記事は、棚橋弘至:著『カウント2.9から立ち上がれ!(マガジンハウス刊)』より、一部抜粋編集したものです。

『カウント2.9から立ち上がれ!』は次回4/2(木)更新予定です、お楽しみに。