マリウポリの20日間
こちらの作品は、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞作。
ミスティスラフ・チェルノフ監督は、今回のロシアによるウクライナへの侵攻が始まって、すぐ現場の映像を発信したジャーナリストだ。彼とそのチームによるニュースは、世界を駆け巡った。
ニュースで見た映像も多く含まれる本作だが、興味深いのはニュースには出なかった場面だ。
たとえば、初日に出会った婦人。息子が仕事で出ていて、家には自分1人、どうしていいかわからないと泣きながら道を行く彼女に、監督は家に帰ったほうがいいとアドバイスする。民家が攻撃を受けることはない、外を出歩くより家の中が安全、との判断によるものだった。だが、間もなく民家への攻撃が始まる。
のちに避難施設を取材したとき、避難者のなかにその婦人を発見、間違ったアドバイスをした自分を悔やんでいた監督は、大きく安堵する。
だが、ニュースとニュースのあいだにあるのは、喜ばしいことばかりではない。
怪我人であふれかえる病院にもカメラが入る。ある病院には、少年の遺体に取りすがって泣く父親がいた。
増え続ける死者の埋葬場所も撮る。戦火のなか、丁寧に葬る余裕などない。大きく掘られた穴に、次々と投げ込まれる遺体の1つを包むシーツの柄に見覚えがある。あの少年のものだ。
戦闘のなかを行く取材チームにも危険が伴う。チームがいた病院にロシア軍が迫る。取材者であることがバレないよう、医療ガウンで変装させ、逃がそうとするのは、取材対象となっていた人々だ。なぜか? 通信状況の悪化により送れなくなっていた撮影された映像を、世界に届けてほしいと願っているのだ。
生々しい映像を撮り続けた功績はもちろん、取材者と取材対象も人と人であるという事実に気づかせてくれるドキュメンタリーだ。