若干20歳でシェフに抜擢され給料も3倍に

料理の世界は、10代の僕にとって刺激的でしたね。とにかく毎日が楽しかった。当時は、まだ体育会のようなシゴキのようなものがどこの店でもありました。でも、自分が好きな料理の世界では、どんなにツラくても耐えられた。おそらく、今度は逃げ出したくなかったんです。そして、なにより料理がおもしろかった。

当時の僕のモチベーションは、コンプレックスです。料理人でも大卒が当たり前の時代で、僕は中卒でしょ。だったら大卒の22歳までに、みんながうらやむ給料を稼ごうと。そのハングリー精神が支えになっていました。

先輩たちの教えは「人の数倍やれ」。

紹介してもらった日本青年館のレストランをはじめ、いろいろなレストランを転々としながら、修行に明け暮れる日々を送ります。築地にも毎朝、顔を出し、休みは月1日。さらに海浜幕張にできたホテルの研修にも通わされ、とにかく眠る時間がありません。

先輩たちは厳しいけど、料理の腕は確かだから必死でした。だから、鍋磨きでも洗い物でも真剣に。若かったから吸収する素直さもあったわけですよね。

料理人の仕事というのは、ひとことで言ってしまえば細かい仕事の積み重ね。そうはいっても、集中は3時間が限度。その時間内で、どれだけ最高のパフォーマンスをできるかってことなんです。

▲「人生で10万回作ってたどり着いた」という“香る”チキンソテー

やがて、先輩の紹介で神田にあったビストロに勤めるんですが、入った途端に先輩たちがみんな辞めちゃって、わずか20歳でシェフに昇格することに。

面接では「なんでもできます!」って答えたけど、じつは何もできないのにね(笑)。当時はネットなんてなかったから、紀伊国屋で本を探して。でも、高くて買えないから全部、頭に叩き込んでました。

それまでは7万とか8万だった給料も、一気に20万円越え。20万って若手の大台だったんです。当時はバブルだから、どんな店も勢いがあった。僕も若かったからよく働いたし、重宝されました。

そして、先輩が勤めていた広尾の「Acca」という店に行って、料理を食べた瞬間でした。度肝を抜かれたんです。

当時、広尾にあったAccaの林冬青シェフは、気鋭の若手として知られていましたが、うまい料理って食べた瞬間に圧倒されるんです。「うまい!」って。

りんごとフォアグラのミルフィーユをはじめとした、店のメニューにも圧倒されてね。これまで積み重ねてきたものが全然違う。ここで働きたいと思いました。林さんは今でも尊敬する料理人の一人です。