上京の背中を押したブラマヨ吉田の一言

――その研究が初舞台での爆笑につながったと。その後、沖縄で芸人として活動をスタートされましたよね。

しゅうご:高校生の頃に、沖縄でお世話になっていたオリジンっていう事務所にアマチュアの預かりとして所属することになって。3年間ライブに出たりしつつ、高校卒業したあとに、正式にプロとして芸歴が始まった感じです。

――沖縄での活動は拝見していました。地元ではすごく評価が高かった印象です。

しゅうご:そこまででもないですよ。僕らが高校生の頃には、オリジンにキャン×キャンさんとか、スリムクラブを結成する前のピン時代の真栄田(賢)さんとかいたんですけど、その先輩方がシャレにならないくらいウケていたので。僕らは常にその一段下っていう感じで。

でも、確かにに仕事はそれなりにしていました。『O-1グランプリ』っていう、沖縄のテレビ局が主催している沖縄芸人のNo.1を決める大会でも優勝したんです。21~22歳くらいのときには、芸人の仕事だけで食べられるようになっていました。

――そこから東京に活動拠点を移すのは勇気がいりますよね。

しゅうご:そうなんですよね。“一生、沖縄で芸人やるのもいいな”と思った時期はありました。地元で何十年活躍して食えている先輩芸人も多いので。でも、そういう先輩がふとしたときに「俺、若い頃に東京へ行かなかったことを後悔してるぜ」って漏らしたりするんですよ。そういうの聞くと、やっぱり東京行くべきかなって。あと、ブラックマヨネーズさんと共演したのが大きかったんですよ。

――ブラマヨさんですか? 何があったんでしょう。

しゅうご:当時、吉本の芸人と沖縄の芸人で月一回ライブをやるって企画があって。そこで、『M-1』優勝したあとのブラマヨさんとライブで共演したんですけど、そのときに地元のラジオ番組の公開収録で、ブラマヨさんと僕らで20分間フリートークすることになったんですよ。

当時、僕らはそのラジオ局でレギュラー番組を持っていたんで、全部持っていかれたら恥ずかしいなと思って。ブラマヨさんに勝てなくてもいいから、負けないようにしようと。そういう意気込みで収録に臨んだら、けっこういい仕事ができたんですよ。それで、そのあと楽屋に戻ったら、吉田さんがいきなり「自分ら、大阪か東京には来えへんの?」って。

――それはうれしいですね。

しゅうご:そしたら、楽屋の奥で背中向けて座ってた小杉さんが、めっちゃかっこよく振り返って「それやったら東京しかないやろ!」って。

――かっこいい(笑)!

しゅうご:僕も“かっけえ!”って。それで“やっぱり東京に行こう!”って決意できたんです。だから、ブラマヨさんに背中押してもらったっていう感じです。

――まさにターニングポイントですね。たーにーさんは、どう思ってたんですか?

たーにー:……しゅうごは、よくこの話するんですけど……僕は記憶が一切ないんですよ。

しゅうご:マジで!? めっちゃいいエピソードなんだから覚えとけよ。

上京当日のネタ見せで大ハマリ

――上京後すぐ『ふくらむスクラム!!』(フジテレビ系列)のレギュラーに抜擢されました。すごく上々の滑り出しですよね。

しゅうご:上京当日がネタ見せだったんですよ。上京後、最初に所属した事務所のマネージャーさんに「知り合いのディレクターにお願いして、ネタ見せ入れておいたから」って言われて。

でも、僕らは上京した当日だから、引っ越しの荷物とか持ったままネタ見せの会場に行ったんですよ。で、その荷物を置いて「はいどーもー」って漫才を始めたら、ディレクターさんたちにウケたんです。「その荷物はコントに使うんじゃないのかよ!」って。それが印象に残ったのか、レギュラーを選抜するオーディション番組の『新しい波16』に出れて、そこでも運良く勝ち上がれたっていう。

――『ふくらむスクラム!!』は、『めちゃ×2イケてるッ!』や『はねるのトびら』の流れにあたる、いわばスター街道が保証される番組のイメージです。

しゅうご:それもネタ見せの会場で初めて知ったことでしたね。番組のコンセプトになっていた「お笑い8年周期説」も、そのときに初めて知って。スタッフさんも『めちゃイケ』で育った人ばっかりでした。

※お笑いスターは8年周期で生まれるという仮説。ビートたけし、明石家さんま、松本人志、岡村隆史がそれぞれ8歳差であることに由来。

――沖縄時代とは環境がかなり違いますよね。

しゅうご:本当にそうでしたね。カメラの数、スタッフの数、コントの作り方……何もかも違ってました。収録のときは全然ストップがかからなくて、延々カメラ回し続けるとか、そういうルールが最初はわからなくて。

たーにー:台本のオチ台詞を言っても、大きな笑いが起きないとカメラが止まらないんですよね。だから、コントに出るときはオチを5個ぐらい用意しないといけなくて。一つ目のオチを言ってもカメラが止まらなくて、二つ目を試してもダメ、三つ目はハケながら一言みたいな。そういうのを何度も繰り返すんですよ。自分の限界を決めずに、知恵を振り絞る経験はできたんですけど……。

しゅうご:その現場に慣れ始めた頃に、番組が終わっちゃった感じですね。

――『ふくらむスクラム!!』は、リニューアル版を含めて約1年で番組が終了しました。この頃には、ライブでも思い通りにいかない時期が続いたと、別のインタビューで話されていましたよね。

しゅうご:ウケないことも多かったですね。沖縄でやっていた漫才を、そのまま持ってきちゃったんで。どの言葉が方言で、どの言葉が東京でも伝わるのか、それがわからない状態で喋ってたし、間の取り方がはっきりしなかったんですよね。沖縄の訛りだと「なんでよ、やー!」ってツッコむんですけど、それを「なんでだよ!」に変えたらリズムが変わるので、その変化にうまく対応できなかったのかなあ。

――上京後には、漫才からコントにネタを変えられていますよね。

たーにー:コント番組を経験してから、コントを始めたんです。普通、逆ですよね。

しゅうご:漫才と違って、コントの台詞なら訛りにくいから、というのが理由ですね。あと、当時は賞レースも大きなタイトルは『M-1』くらいだったんで、僕らの「作品」っぽくない漫才は時代に合っていない気がして。それでコントに賭けた感じです。それからは劇場でもコントだけをするようになって、漫才をやるのは営業とかイベントだけになっていきました。

▲しゅうごパーク「あえてコントで勝負するようになっていきました」