僕のシュートは入りだしたら止まらない

オフコートだけでなく、コート上でも素早くチームにフィットすることができたと自分では思っているのだが、その理由はホーバスHCの戦術にある。

オフェンスでは、まずスリーポイントを狙えと言われている。フリーなのにスリーポイントを打たずに、パスをしようものなら怒られてしまう。割合で言えばアテンプト(シュートの試投数)の7割以上は、スリーポイントを打つのが目標だ。

相手がスリーポイントを防ぎにくれば、簡単にドライブできる。ヘルプが来ればキックアウト(ドライブ後にアウトサイドのプレーヤーにパスを出すこと)して、またスリーポイントを狙えばいい。狙いが僕の大好きなゴールデンステート・ウォリアーズに似ているので、理解しやすい。

ディフェンスのほうは、ウォリアーズよりも僕が所属するネブラスカ大学に似ている。スイッチのルールは若干違うが、ベースライン(コートを区画するラインのうち、短いほうのライン)のケアやヘルプの出方がほぼ同じなので、スムーズに対応することができた。

印象に残っているのは、オーストラリアとの2試合だ。最初の試合は、僕の5人制フル代表デビュー戦だった。緊張こそしなかったものの、ついにこの舞台まで来たかという感動はあった。特にクリーブランド・キャバリアーズ時代に、よく見ていたマシュー・デラベドバと同じコートに立ったのは感慨深かった。

デビュー戦で僕はスリーポイントを5本決めて18得点を挙げたが、日本は52対98と46点の大差でやられてしまった。アンダーでやってきた相手とは全くフィジカルが違うことに加え、オーストラリアのフォワードは、シュートやドライブの技術も持ち合わせていた。

貴重な経験が得られたものの、悔しい気持ちも強かったので、アジアカップでリベンジのチャンスが来たときは興奮した。この試合は、最初のシュートが入ったこともあり、序盤からリズムに乗ることができた。

僕はシューターとして安定したタイプではない。その代わり、入りだしたら止まらないタイプだ。この試合は、最終的にスリーポイントを8本沈め、33得点を記録した。残念ながら85対99の敗戦となってしまったが、怪我で雄太さんがいなかったことを考えれば、収穫は大きかったと思う。

▲勢いに乗ってきたら誰にも止められない!

代名詞にもなったロゴスリーで人生が変わった

この試合の終盤、僕はロゴスリーを決めた。スリーポイントラインより2~3歩下がって打つシュートをディープスリー、チームや大会のロゴが描かれているセンターサークルに足がかかるぐらい遠くから打つシュートをロゴスリーと言う。

ネブラスカでも頭文字を取ってロゴKと呼ばれることがあるぐらい、僕の代名詞になっているロゴスリーだが、じつは実戦で打ち始めたのは最近のことだ。公式戦で打ったのは、確か高校最後のウインターカップが初めてだったと記憶している。

そもそも中学校までの僕は、ほとんどキャッチ・アンド・シュートしか打っていなかった。もちろん、相手が飛べばワンドリからプルアップ(ドリブルからのジャンプシュート)、レーン(バスケットへ向かう道。ドライビングレーン)が空けばレイアップを試みたが、自分でクリエイトするというタイプではなかったのだ。

そんな僕が、今のスタイルに辿り着いた転機は2つある。1つは桜丘高校で林永甫コーチから、エイトクロスという戦術を習ったことだ。エイトクロスはシューター向けのオフェンスで、左右両サイドで味方のスクリーンを利用することができた。

ディフェンスの動きを読んで、アンダーに対してはポップ、チェイスしてきたらカール〔ディフェンスがスクリーンの下を潜ったらスリーポイントラインの外に出る、スクリーンの上から追いかけてきたらスクリーンを回り込んでバスケットゴールへカットする〕という細かい練習をみっちりとやったおかげで、状況判断がうまくなった。

もう1つの転機は、U16とU18というアンダーの大会に出場したことだ。それまでの僕は一度も代表に呼ばれることはなかったのだが、国際大会に出たことで一気に自信がついた。

身長が急激に伸びて、ポストアップ(ポストでバスケットに背を向けてボールを受けとること)のような、それまでは選択肢になかったプレーができるようになった時期も重なった。高3のウインターカップで、初めて僕を知った方も多いと思うが、それまでは無名で実績もなかったのだ。

話をロゴスリーに戻すと、打ち始めたきっかけは国際大会では簡単にスリーポイントを打たせてもらえないことに気づいたからだ。帰国後に遊び半分で遠くから打っていたら意外と入るので、ウインターカップで実戦投入した。その結果がウインターカップ得点王で、今では僕の代名詞になっている。

人生、何がきっかけで、どう転がるかわからないものだ。