ヤンキーから逃れるために陰者ユニット結成
しかし、進学先は田中さんが「最悪だった」と振り返る治安の悪い男子校の工業高校だった。
「僕のクラスに、学年で一番のヤンキーがおったんですよ。そいつが他のクラスのヤツらを制圧し、制圧されたヤンキーがクラスに来て暴れていく。それを見て“どうにかせんと3年間カツアゲされるだけや”と焦りました」
抗争が抗争を呼ぶ不条理な世界。田中さんは入学してからすぐに悟った。痩せていて腕力はない、目をつけられたら終わりだ。どうにか学校生活をやり過ごさなければいけないと考えた結果、あるアイディアを思いつき、実践した。
「話しかけるのもちょっとな……とためらうような、クセの強い人たちとチームを結成したんですよ。近寄りたくないと思うような、陰のつわものを他のクラスからスカウトして、4人のユニットを結成しました。
学校では一緒に過ごして、プライベートは別。彼らの好きなものは何も知りません。僕のことも教えていません。ビジネスライクな関係を築いていました」
策は功を奏した。ヤンキーのターゲットからは外れ、平和な高校生活を送ることができた。ただ、それには大きな代償も伴った。
「ヤンキーからの攻撃は受けませんでした。それはよかった。でも、大きな不利益もありました。組んだユニットが不気味すぎて、誰からも相手にされなくなったんです。先生も含めて。高校では……ほんまにいいことがありませんでした」
友人とラジオと『怪談グランプリ』に挑戦
その後、無事に高校を卒業した田中さんは、美大の受験に失敗したあと、アパレルブランドのアルバイトやイラストレーターの仕事をしながら、実家で生活を送っていた。
その生活から約13年が経った2010年。現在につながる小さなきっかけが訪れる。中学生の頃から聞いていたラジオが打ち切りになったことで、仲間とポッドキャストを始めたのだ。
「尊敬する北野誠さんと竹内義和さんがパーソナリティーをしている『誠のサイキック青年団』というラジオ番組がありました。その番組で夏場にやっていた怪談特集がおもしろかったんですよ。でも、番組が終わってしまった。なので、横山創一さんという方とコンビを組み、音声配信を始めたんです」
番組名は『血液型boy's talk』。血液型を切り口にして、芸能界や社会についての出来事を語っていく――。今ではとても放送できないアングラな内容がメインの番組だったそうだ。週に1回、時には5時間以上のトークを展開。そのコーナーのひとつで怪談を語っていた。
配信パートナーの横山さんは、2010年に関西テレビが主催する怪談コンテスト『怪談グランプリ』(2011年は『稲川淳二の投稿怪談』、2012年からは怪談グランプリへ改称)にも出演。それに影響を受けた田中さんは、2013年の同大会への出場を決意した。
これが人生の大きな転機へとつながる。
怪談グランプリで話すネタは、ベトナム人の知人からもらった「あべこべ」という怪談に決めた。ゾっとするような話になるように、横山さんと内容を構成。3回のオーディションを経て、一般枠での出場枠を勝ち取った。
本選の出場者は11名。そのうち初出場となるのは、田中さんを含めた2名のみ。他の9名は、芸人やタレントなどの人前で話をするプロだった。審査方法は、稲川淳二さんを含めた審査員4名と観客審査の点数の合計で順位を決めるというもの。500点満点で点数を競い合う賞レースだった。
怪談グランプリの当日。田中さんが楽屋の隅のイスに座っていると、番組が始まる前にADに声をかけられた。
「いまの話の構成だと勝てないですよ」
「そうか。プロが言うことだし、そういうもんかな」
ADの言葉を受け入れた田中さんは、出番前に構成を変更。構成が変わると、話す内容もガラッと変わる。話を覚えるために、原稿を持ってトイレに入り、練習を始めた。
ただ、練習の最中にふとした疑問が浮かんだ。
「よく考えたらADは怪談のプロやない……。せっかく横山さんと作り上げたんやから、そっちを信頼せんと。変える必要はない、元のままで行こう!」
そう決意すると楽屋に戻り、しばらくすると出番が訪れた。田中さんの出番は4番目。スタジオに出ると、田中さんを見た観客が悲鳴を挙げた。あたたまっていたスタジオの空気は一気に重くなる。それを感じた田中さんは「これはいける」と確信した。
怪談を話し終えると、暫定1位となった。あとに続く7人も、田中さんの獲った点数に追いつけず、そのままトロフィーを獲得。番組が始まって以来、素人として初めての優勝者に輝いた。
審査員のひとりであり、オカルト評論家の山口敏太郎さんは、この大会を次のように評している。
「今日は怪談を扱ってきた作家・芸人・タレントが、素人に負けた日です。これは歴史的な日ですよ」