歴史上の人物への評価は、常に同じわけではない。例えば、三英傑と呼ばれる信長・秀吉・家康も、時代によって変わってきた。豊臣秀吉とイエズス会宣教師たちとの関係は、当初は良好だったが、1587年、秀吉自ら軍を率いて九州征伐へと向かった頃から変わったようだ。政治評論家の三浦小太郎氏によると、それは日本を守るための行動であったと言います。
※本記事は、三浦小太郎:著『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。
伴天連追放令を出した秀吉の決断
豊臣秀吉が望んでいたのは、なによりもまず日本国内の「平和」だった。
秀吉の眼から見れば、宣教師たちがおこなっていた他宗派への排撃、キリシタン大名による上からの強制、ある種の宗教国家体制の構築は、平和への敵だったのである。
おそらく、秀吉はイエズス会との関係を断つべきか、貿易の利を守るために友好関係を維持するか悩んでいたと思われる。
そして、伊勢神宮からの要請、キリシタン大名領地から報告される寺社への攻撃の実情などが、秀吉のもとにはもたらされていたはずだ。
「国分」と「裁定」にあらがう島津家を征伐する九州遠征によって、秀吉はキリシタン大名の領地に実際に初めて足を踏み入れ、かつ、イエズス会が領有する長崎の港、そして日本人奴隷の実態などに触れただろう。
秀吉によって領土を守られるはずのキリシタン大名・大友家や大村家が、政治的にはイエズス会士たちの強い影響下にあることを秀吉は見抜いたはずだ。
そして、イエズス会士たちが、このキリシタン大名の領土を、ある種の「根拠地」として強い影響下にある領土のように振る舞っていたことも。
これらのさまざまな要素が絡み合い、ついにある感情の一線が切れてしまったこと、それがこの時期の秀吉の心理ではなかったかと私は考えている。
もちろん、これはあくまで推測に過ぎない。
より重要なのは、この九州征伐の時点での秀吉のキリシタン批判が、政治的な面においてはほぼ妥当なものであったこと、乱世を終わらせ平和を構築しようとする豊臣政権にとって、宣教師たちの日本の国法や伝統的宗教を布教のために踏みにじる行為をやめさせようとした姿勢は、一定の正統性を持っていることを理解することのほうが、秀吉の内面を探るよりもはるかに重要なことであろう。
たとえ、この時期に出されずとも、伴天連追放令は豊臣秀吉が「平和」を日本に構築するためには、いつかは必要なものだったのである。
秀吉はインド征服までを構想していた
そして、秀吉の伴天連追放令と同時に見ておかなければならないのは、朝鮮や琉球、そしてインドやフィリピンにまでわたる「アジア戦略」が同時に発動されていたことである。
従来、1592年から93年における文禄の役、1597年から1598年における慶長の役という二度にわたる日本軍の朝鮮出兵は、晩年の秀吉による誇大妄想的な行動だとみなされることが多かった。
一方、この出兵を評価する説もいくつかあり、当時のアジアを支配していた明国の冊封体制の打破、統一後の諸大名に対する秀吉政権の支配力強化、諸大名の戦意の海外への発揚、また、明との交易を真の目的とする説などがある。
そのうち、この出兵前後の秀吉の行動を分析し、それをスペイン・ポルトガルのアジアへの侵略に対抗する独自のアジア戦略であったことを論証したのが、『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』(経営科学出版により復刻)を、大東亜戦争中の昭和17年に著した奈良静馬と、さらに緻密な研究をおこない『戦国日本と大航海時代』(中公新書)で和辻次郎賞を受賞した平川新である。
まず、伴天連追放令前後の豊臣秀吉の行動を、平川の著書によって時系列に並べてみる。
1587年 秀吉九州平定、対馬の宗氏に朝鮮服属の交渉を命じる
伴天連追放令伴天連追放令発布
1588年 島津氏を命じて琉球に入貢を命ずる
1591年 ポルトガル領インド副王への書簡作成
マニラのフィリピン総督に服属要求書簡作成、発送
1592年 朝鮮出兵(文禄の役)
1593年 フィリピン総督に二度目の書簡送付
台湾に入貢を求める書面
平川が着目したのは、豊臣秀吉は朝鮮出兵以前から、明国征服のみならず南蛮(東南アジア)や天竺(インド)征服を構想していたことだ。1585年の関白就任直後、秀吉は「日本国の事は申すに及ばず、唐国まで仰せ付けられ候心に候か」と語ったことが、家臣の書状に記されている。
また、1586年イエズス会のコエリョに大坂城で謁見した際も、「国内平定後は日本を弟の秀長に譲り、明国征服に乗り出すことを語った」とフロイスの記録にある。