1637年(寛永14年)に起きた島原の乱について、どのように学んできたでしょうか? 情報戦略アナリスト・山岡鉄秀氏によると、生活に困窮した農民一揆とは異なる側面が強いと言います。世界史的にいえば大航海時代というグローバリズム・帝国主義の流れのなかで、当時の日本がどのように独立を守ったのか、現代にも通じることがあるようです。

※本記事は、山岡鉄秀:著『シン・鎖国論 -日本の消滅を防ぎ、真の独立国となるための緊急提言-』(方丈社:刊)より一部を抜粋編集したものです。

島原の乱は生活者大衆の一揆ではなかった

徳川家康に排除されたキリシタン大名とスペインの宣教師らは、家康の敵である豊臣秀頼に取入って起死回生の望みを懸けるため、大阪城入りした宣教師も多数いたそうです。しかし、大阪冬の陣、夏の陣を経て豊臣家が滅亡すると、その望みも潰えました。

家康が没したあと、独り立ちした第二代将軍秀忠は、キリスト教布教による弊害を重視して、まずスペインの追放を決定しました。さらにヨーロッパ船の来航を、長崎と平戸の両港に限定する措置を採りました。

それでも商人を装って密入国する宣教師や、それを支援した日本人もいたのですが、厳しく断罪して処刑しました。しかしなお、ポルトガルはしぶとく日本に残り続けました。

第三代将軍家光は、さらにキリスト教に対する統制を強めます。日本近海でも繰り広げられている「オランダ・イギリス」と「スペイン・ポルトガル」の海上戦、すなわちプロテスタントとカトリックの覇権争いに巻き込まれることを恐れたからでした。

家光は祖父の家康を心から敬愛していましたが、ややもすれば経済優先主義だった家康の政策を改めて、安全保障最優先政策に切り替えたとも言えます。しかし、家光が鎖国体制を整えようとする最中に島原の乱が勃発します。

▲原城跡 写真:Ay create / PIXTA

島原は、もともとキリシタン大名の有馬晴信が治めた地で、キリシタンは庇護されていました。その有馬晴信が死罪になったあと、この地は一時、天領(幕府直轄地)となりますが、のちに大阪夏の陣で軍功を上げた外様大名の松倉重政に与えられます。

松倉重政は、外様としてのハンデを乗り越えようと、幕府に望まれる以上の忠勤に励むあまり、領民を重税で苦しめました。その一方でキリスト教には寛大だったので、イエズス会の宣教師は領内で公然と布教活動をしていました。

ところが一度、幕府から「キリスト教に甘い」と苦言を呈された重政は、改易を恐れるあまり、今度は掌を返してキリスト教をひどく弾圧し始めます。

松倉重政の死後、嫡男の松倉勝家が島原藩を継ぐのですが、キリシタンの家臣たちは誰も勝家に従わず、天草の教徒らと謀議を重ね、1637年末に、16歳の美少年・天草四郎を担いで島原・天草の乱を起こします。

島原の乱は、生活に困窮した農民一揆とは全く性質の異なるものでした。キリスト教を棄教した証文である「転び証文」を取り返すために、集団で代官所を襲って代官を殺害し、併せて島原藩の御用蔵に押し入り、米や大量の武器弾薬を奪いました。

それにとどまらず、村々の神社仏閣を焼き払い、僧侶や神官を殺害したうえ、城下町を焼き払います。

4万人弱にまで膨れ上がった一揆勢は、廃城とていた原城に入り、奪った食料や武器弾薬を運び込んで籠城の態勢を整えました。これはもう百姓一揆の域を超えた本格的な内乱・クーデターであって、指揮していたのはキリシタン大名だった小西行長や有馬晴信の元家臣で、キリシタンの国人衆や地侍でした。つまり、戦争のプロが組織した宗教クーデターだったのです。

ポルトガル商館前に晒された天草四郎の首

当初、一揆勢を甘く見ていた幕府側は「応戦のみに留め、女、子どもは殺さないように」という方針で原城に近づきますが、大苦戦を強いられます。総大将の板倉重昌は顔面を鉄砲で打ち抜かれて即死し、4000人もの戦死者を出してしまいます。

次に総大将として派遣されたのは、「知恵伊豆」の異名を持つ家光の寵臣だった松平信綱でした。信綱は原城を包囲し、兵糧攻めを開始します。さらに、原城に矢文を送り、「不満が正当であるなら和談し、年貢を免除、軽減する用意がある」と懐柔を試みますが、一揆勢からは「我々の宗教を認めよ」という返事のみが返ってきます。

それでも、信綱は「無理やり城内に連れ込まれた非キリシタンや、城を出て改宗する者は赦免する。まだ子どもの天草四郎も、降伏するなら助命する」と寛容に投降を呼びかけますが、一揆勢からは逆に「近々、ポルトガルの軍船が応援に来る。幕府が和睦を望むなら、松倉勝家の首を刎ねて持ってこい」と極めて強硬な回答が戻ってきました。

そこで信綱は一計を案じます。ポルトガルの援軍が来ないことを一揆勢に知らしめるため、長崎奉行を通じてオランダに依頼をし、ポルトガルと対立するオランダの軍船から原城に艦砲射撃と、地上からも砲撃をしてもらったのです。

援軍の期待を失った反乱の士気は一気に低下し、兵糧攻めで食料が尽き始めた原城からは、夜陰に紛れてまず「非信者たち」が逃げ出し始めます。

そして1638年2月28日、幕府軍の総攻撃によって原城は陥落し、籠城していた3万人強の一揆勢は、老若男女を問わずに皆殺しになりました。打ち取られた天草四郎の首は、無惨にも長崎出島のポルトガル商館前に晒されることになります。

島原の乱を決定的要因として、以後、家光はポルトガル船の来航を禁止し、ポルトガル人を国外へと追放します。その結果、ヨーロッパ勢としては交易に専念したオランダのみが出島に移って、日本との関係を継続することを許されました。

日本は、こうして家光が完成した鎖国体制の下、ヨーロッパでの絶え間ない戦乱や革命を尻目に、戦争のない平和な時代を220年あまりに渡って送り、国内産業発展の土台を築き、豊かな江戸文化が花開きました。

日本が取った「鎖国」という安全保障政策、今日の苛烈な国際情勢に照らして見直した場合、何を学び取ることができるのでしょうか? まず私が指摘しておきたいのは、鎖国とは日本を植民地化させないための歴史的偉業だったということです。

当時は、大航海時代というグローバリズム・帝国主義の時代でした。軍事的に劣る文明は次々と破壊され、略奪され、植民地化され、住民は奴隷化されました。アフリカ、中南米、明やインド、東南アジア諸国……。

その苛烈な弱肉強食の時代にあって、東洋の小さな島国でありながら、高度な軍事力をもって欧州列強の軍事侵攻を許さなかったことは、実に驚くべきことです。

当時の日本人には、獰猛な外国の恫喝に屈しないだけの強さと胆力がありました。旧教を背景とするスペイン・ポルトガル勢を「グローバリズム」であると見抜き、安全保障重視へと舵を切った秀忠と家光は、極めて賢明だったと言えるでしょう。