仕事がない…ブログを立ち上げることを思いつく

『ハラハラドキドキ』の連載が打ち切られて、仕事がなくなったが集英社と独占契約を結んでいたため、他誌で描くことができない。結局「1円にもならない新作ネームを日がな1日描いていた」という。

時間と描きたいものはある。しかし紙の媒体は縛りがキツい。そんな状況で2007年に個人ブログを立ち上げた。今でもその一部は閲覧可能だ。

「デビューした90年代はまだネットはないに等しい状況でした。世に自分の面白いと思うものを出そうと思ったら、出版社を通して、そのために編集さんを攻略するしかなかった。でもその当時ブログなら簡単に立ち上げられて、発信できると気づきました。そこにストックしてあるネタを排出しようと思ったんです。出さないと狂うくらい創作意欲がくすぶっていましたからね」

開設当初のコンテンツは主に2本立てで、1つが暗黒の幼少~学生時代の珍奇な思い出を漫画と文章でつづったもの。もう1つは赤羽で出会ったキャラの濃い人物や、目をうたがうような光景を写真と文章でレポートするもの。これが『北区赤羽』の原型となった。

地獄保育園①
2008年1月24日の投稿より https://usurabaka.exblog.jp/8062337/
赤羽の赤い老人
2008年1月15日の投稿よりhttps://usurabaka.exblog.jp/7994554/

赤羽には連載終了した後に、実家から移り住んでいた。清野さんいわく、赤羽という街に住む“ダメな人”の存在には救われたという。

「赤羽は四六時中酔っぱらってる“ダメな人”が、そこかしこにいた。でも、それでダメな自分も許容してもらえたように思えた。多分あの状態で中目黒とか広尾とか田園調布とかに住んでいたら『みんなちゃんとしているのに、俺は何をやっているんだ』と罪悪感と自己嫌悪に押しつぶされていたでしょう。まあ家賃的にも住めるわけなかったですけど(笑)」

そんな赤羽での日々を記したものは、「身辺雑記」と片付けるにはあまりに魅力的なコンテンツだった。ブログはすぐ編集者の目にとまり、2008年から『東京都北区赤羽』は『ケータイまんが王国』で連載となった。