初めて目にした台に目を輝かせていた若かりし日
そんなこんなで、パチンコを始めて1年くらいは経ったのかな。いろいろ覚えました。「時短」「確変」「電チュー」みたいな、基本的な単語を理解できるようになっていきます。「電チューを開くためには、スルーを通さないといけないよ」とかね。
最初の頃は「時短」という概念を知らなかったので(笑)、当たったあとに「なんか、やたら電チューが開くようになった気がするなあ、いつまで続くんだろう」程度の認識でしかありませんでしたが、この頃はもう、そういった概念も把握できるようになっていました。
当時の僕は、現金デジパチと羽根モノを行ったり来たり。お金ができると現金デジパチを打って、なくなりかけると少しでも遊べるようにって羽根モノに戻って……のようなパチンコライフを送っていました。
CR機はまだちょっと怖くて、がっつり打つ、ということはほとんどありませんでした。「バイトの給料日に、3000円PAQYカード一本勝負!!」みたいなのを、すこーしだけやったりしましたけどね。結果はお察しのとおりです。
最初の頃は、自転車で15分で着くくらいのホールにしか行っていませんでしたが、学生で体力がある僕は、自転車で行けるギリギリくらいの距離にあるホールまで、足を伸ばすようになっていきます。
1999年にP-Worldでもあれば、また話は違ったのかもしれませんが、設置機種の情報などはない時代です。置いてある台の詳しいスペックとかも、わからないような時代でしたからね(笑)。自分でホールを探す。そして「出かけた先にパチンコ屋があれば、とりあえず入ってみる」みたいな生活をしていました。
いろんな台を打ってみたかったんでしょうね、きっと。それこそ、お客さんが全然いないホールとかもありました。ボッタ店でしょう。そんなホールだとしても、見たことがない台を見つけると「何これ!!」って、目を輝かせて打ってたあの頃です。若いなぁ(笑)。そんなことをしていたら、普通に打つよりも、めっちゃ負けるんですよ。当たり前ですが。
羽根モノとドラム台に魅せられていたこともあって、知らないドラム機や、知らない羽根モノを見つけると打たずにはいられない……そんな感じでしたね。あの頃は液晶機に(そこまで)興味がなかったなあ。
当時の液晶機はそこまで液晶が大きいわけでも、綺麗なわけでもないので、淡々とリーチになって、割とちゃっちいアニメでリーチが進んでいる感が、そんなに好きではなかったんですよね。このあとグラフィックに使えるチップが新しくなり『CRフィーバーゼウス』(SANKYO)や『CRドルフィンリング』(平和)といった、高解像度のグラフィックが使えるようになって、パチンコ台は大きく進化していくことになるのですが。
〇CRフィーバーゼウス SX リーチ全集[SANMAN-PパチンコさんのYou Tubeより]
『百姓一揆』(マルホン)とか、遠征しないと打てなかったんだよなあ。今思うと結構甘めに使ってくれていたので、自転車で30分くらいかけて行ってましたね。
〇ハネモノ 百姓一揆[studiorissenさんのYou Tubeより]