全日本プロレスでは三冠ヘビー級王者、プロレスリング・ノアではGHCヘビー級王座を戴冠し、絶対王者としてプロレス界の頂点に君臨した"鉄人"の異名を持つ名レスラー・小橋健太さん。しかし、そんな中で突如として発覚した腎臓がん。手術そして苦しいリハビリ、がんと向い合い闘った10年……がんになったことによって、日々の生活や考え方は変わったのか? 小橋さんがすべてを赤裸々に語ってくれました。

※本記事は、小橋健太:著『がんと生きる』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

がんによって貫けなかった「生涯現役」

「自分が、こうして引退宣言する日が来るなんて思わなかったです。でも、人生が終わったわけではありません。ここからもう一度頑張って、充実したプロレス人生に負けない人生を送りたいと思っています」

突然の腎臓がんの告知を乗り越えてリングに戻ってから5年……2012年12月9日、僕は両国国技館のリング上からファンのみんなにそう語りかけました。

若手の頃、僕は生涯現役を貫いて亡くなったジャイアント馬場さんの付き人を務め、その大きな背中を見てきました。だから自分自身にも「引退はない」と思っていました。しかし復帰から5年で引退を決断せざるを得なかったのです。

「戻ってきた以上は、再びチャンピオンを目指していきたい!」

2007年12月2日に復帰した後、僕はそう心に誓って日々を懸命に生きました。タイトルマッチに絡まないポジション、勝敗を超越した特別なポジションに身を置くことは、微塵も考えていませんでした。

師匠の馬場さんは、力道山さん亡きあとに全日本プロレスを設立。日本プロレス界の発展を支えた偉大なレスラーです。1974年の12月には王者のジャック・ブリスコを撃破、日本人レスラーとして初めてNWA世界ヘビー級チャンピオンにもなったことは、今なお語り継がれる偉業です。

しかし晩年は"明るく楽しいプロレス"で、ファンの皆さんに愛される存在になり、全日本プロレスの象徴としてリングに上がっていました。

そんな馬場さんの最後のタイトルマッチは、まだキャリア1年1か月の僕をパートナーに抜擢してのアジア・タッグ挑戦。王者組は川田利明さんとサムソン冬木さんのタッグチーム・フットルースでした。89年3月27日、その日は僕の23歳の誕生日だったので、よく覚えています。

リングに上がる以上は常に第一線で戦いたかった

▲リングに上がる以上は常に第一線で戦いたかった イメージ:PIXTA

「小橋はどこまでやれるのか?」

馬場さんは、僕に大きなチャンスを与えてくれましたが、同時にタイトルマッチを組むうえでの馬場さんの一つの試みだったと思います。

このカードは、どれだけファンの期待値があるのか、どれだけ集客力があるのか、いろんな面で試したのだと思います。

全日本プロレスの社長でもあった馬場さんは、将来を見据えてジャンボ鶴田さんや天龍源一郎さんにエースの座を譲り、さらに僕のような若手選手の育成にも心血を注いでいました。

そしてプロレスラーとして「馬場さんの試合が観たい」という全国のファンのために、第一線を退きながらも生涯現役を貫いたのだと思います。

「リングに上がっているだけでいいので引退しないでください」

僕も引退を発表してから、多くのファンのみんなに言われました。仮に団体の社長だったら、僕も馬場さんのようにシフトチェンジをしなければいけなかったかもしれません。

でも、そういう自分自身の姿はイメージできませんでした。今にして思えば「自分のプロレスを貫いて終わりたかった」という気持ちが強かったのでしょう。

「リングに上がる以上は、常に第一線で!」

がんを経験しても、僕の人生観が変わることはまったくありませんでした。