「インテリジェンス」とは広い意味を持つ言葉です。いわゆるスパイ活動のほかに、宣伝・プロパガンダ工作、またそれらの活動を行う情報機関を意味することもあります。評論家・江崎道朗氏の調査担当を務める山内智恵子氏が、二十世紀の最重要史料のひとつ「ミトロヒン文書」を紹介する。
※本記事は、江崎道朗:監修/山内智恵子:著『ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
二十世紀の最重要史料「ミトロヒン文書」
ソ連崩壊からまだ間もない1992年3月のある日のこと、バルト三国のひとつであるラトヴィアの首都・リガの英国大使館に一人の男性がやってきて「誰か権限のある人」との面会を求めました。
男性が持参したキャスター付きケースの一番上にはソーセージとパンと飲み物、中ほどには着替えの服、一番下にはたくさんのメモが詰め込まれていました。
男性の名前はワシリー・ミトロヒン。1984年に退職するまで四半世紀あまり、ソ連の情報機関KGBの海外諜報部門である第一総局で、文書や情報の整理と管理を担当していた元KGB将校です。
そしてケースの一番下に隠すようにして英国大使館に持ち込まれたメモは、ミトロヒンがKGB第一総局の機密文書から書き写したものでした。二十世紀の最重要史料のひとつ「ミトロヒン文書」が、西側にもたらされた瞬間です。
近年、欧米各国では現代史の見直しが急速に進んでいます。1991年のソ連崩壊後に重要な史料が次々と公開されたことで、“秘密活動”いわゆるインテリジェンスが国際政治に与えた影響が、それまで考えられてきた以上に大きなものだったことが、明らかになってきたからです。
「インテリジェンス」は広い意味を持つ言葉で、中西輝政京都大学名誉教授の定義によると、機密を含めた他国の情報を収集する、いわゆるスパイ活動のほか、他国のスパイ活動や破壊工作を防ぐ防諜(カウンター・インテリジェンス)、宣伝・プロパガンダ工作、さらには敵国を不利にし、自国を有利にするための謀略(ソ連の用語では積極工作と呼ぶ)も含みます。また、これらの活動を行う情報機関を意味することもあります。
インテリジェンスが、現代史に与えた影響の大きさを浮き彫りにし、現代史の見直しを迫るような重要な史料が、国際社会にはいくつも存在します。これらの史料は、主に安全保障や法律上の理由から「機密」とされてきた、政府のインテリジェンス関係の公文書です。
そのような機密文書のうちで、最重要の一次史料のひとつが「ミトロヒン文書」なのです。
公文書取り扱いの専門的訓練を受けたミトロヒン
ミトロヒン文書が重要である理由は、いくつかあります。
第一に、ミトロヒンが専門的な訓練を受けたアーキヴィストだったことです。
アーキヴィストとは、公務員が作成する公文書を保管する公文書館(アーカイヴ)で、情報の査定・収集・保管・管理を行う専門家です。扱うものは公文書が中心ですが、それ以外にも写真・ビデオ・音声・手紙など多岐にわたります。
日本では、公文書管理が専門的知識と訓練を必要とする重要なものだ、という認識が、まだそれほど広まっていませんが、多くの国が、公文書の管理と保管に力を入れています。公文書館で保管される情報は、過去を知るのに役立つだけでなく、将来に影響する政策を決める判断材料にもなり得るものだからです。
また、文書というものは、政府機関の決定が事後に問題になったとき、責任が誰にあるのかを示す拠り所です。いざというとき、責任の追求から自分の身を守るのも文書ですし、政敵の政治生命のみならず物理的生命すら奪う武器になり得るのも文書です。
ですから、政治闘争の激しいソ連では、古くから文書の収集・管理を重視していました。海外に亡命していた革命家たちが、ロシア革命の前から文書の収集・整理を始めていたほどです。
ミトロヒンは、そういう国で専門的訓練を受けたアーキヴィストなのです。