品川の客は僧侶が5割に武士が3割
春本『旅枕五十三次』(恋川笑山/嘉永年間)によると、品川の飯盛女の揚代は、高いところは銀十匁か金二朱だったが、安いところは六百文や四百文もあった。
嘉永年間の相場で、銀十匁は約千八十文、金二朱は約七百八十文である。
揚代が四百文~千八十文と幅があったのも、品川が歓楽街として人気があった理由であろう。現代に換算すると、おおよそ五千円~一万四千円くらいだろうか。
また、廻しが多く、飯盛女は同時に四、五人の客を取る、と記している。
図4と図5から、品川の女郎屋が海(東京湾)に面しているのがわかろう。窓からは海が見渡せた。
歓楽街としての品川は、客に僧侶と武士が多いのも特徴だった。
戯作『婦美車紫鹿子』(安永3年)は、僧侶が五割、武士が三割、町人が二割としている。
品川にほど近い高輪には、増上寺とその支院が多数あったので、そこの僧侶がやってきた。
また、薩摩藩邸も近かったので、薩摩藩の勤番武士も品川に遊びに来たのである。
ただし、勤番武士はあまり歓迎されなかった。
戯作『品川楊枝』(寛政11年)に、飯盛女同士の会話があり――
「今夜は、おめえは誰さんだえ」
「かの芋客よ」
これは薩摩者のことなるべし。すべて女郎はいやがる。
という具合で、薩摩藩士は遊女一般がいやがったようだ。