日本国憲法体制において、初めて皇位を引き継がれた上皇陛下は、皇位を継承された時点で、昭和60年から始まった宮中祭祀の形骸化を阻止し、皇室の伝統を再び復活させようとされた。近現代史研究家の江崎道朗氏によると、皇室の歴史と伝統に基づく「象徴」の解釈を打ち出された、のだという。

昭和天皇の戦争責任について問い質す記者会

上皇陛下の毅然とした御対応とは対照的に、昭和50年代から政府は、中国・韓国や国内のサヨク団体に迎合し、戦前・戦後の断絶を積極的に容認するばかりか、戦前までの日本の政治的伝統を否定していくようになっていく。

平成元年8月4日当時、天皇皇后両陛下の平成初めての記者会見で、記者会は昭和天皇の戦争責任について、執拗に問い質している。

記者 昭和天皇が亡くなられて以降、戦争責任の問題が国の内外で改めて論議されました。天皇と戦争責任、それをめぐる現在の論議について、どの様にお考えでしょうか。陛下の戦争と平和に対するお考えをお聞かせください。

陛下 昭和天皇は、平和というものを大切に考えていらっしゃり、また、憲法に従って行動するということを守ることをお努めになり、大変ご苦労が多かったと深くお察ししています。先の戦争では、内外多数の人々が亡くなり、また、苦しみを受けたことを思うと、誠に心が痛みます。日本は、新しい憲法の下、平和国家としての道を歩み続けていますが、世界全体で一日も早く平和が訪れるよう切に願っています。

記者 今の質問に関連して陛下にお伺いします。先頃、中国の李鵬(りほう)首相が来日しましたが、このときの会見で陛下は日中戦争をめぐり中国に、遺憾の意を表明されたと伝えられました。どのようなお気持ちでそうおっしゃったのか、お聞かせ下さい。

陛下 その問題については、公表しないことになっております。

記者 さきほどの昭和天皇の戦争責任の質問で、昭和天皇は平和を大切にし考えておるとおっしゃいましたが、これは陛下として、昭和天皇には戦争に関する責任はなかったとお考えだというふうに、とらえてよろしいでしょうか。

陛下 私の立場では、そういうことはお答えする立場にないと思っております。

昭和天皇の戦争責任論について、それを否定するにしろ、あるいは肯定するにしろ、何らかの言質を新天皇から取ろうと食い下がる記者会に対して、上皇陛下は、昭和天皇が「ご苦労が多かった」という追慕の心だけを示された。

陛下はこうしたお言葉で、戦争責任論も含めて昭和天皇が背負って来られたものを、御自身から切り離すことなく、一切引き受けられたのである。ジャーナリストの打越和子氏は次のように述べている。

記者会は、なんとかして新天皇から「あの戦争は間違っていた」といったニュアンスの言葉を引き出そうと必死の様子であった。昭和天皇の戦争責任の有無についても、「責任があった」というお言葉を勿論期待しているのだが、反対に「責任はなかった」とはっきり言われたなら、それはそれで大きな問題にできる――そのような野卑な心情をもって構えていたのである。

しかし、陛下はこの記者会の期待を見事に躱(かわ)された。慎重に言葉をお選びになって、問題にされるようなお言葉は一言もおっしゃらなかった。

「その問題については、公表しないことになっております」「私の立場では、そういうことはお答えする立場にないと思っております」という答えは、答えとしてまことに素っ気なく、質問者を満足させるものではない。このような解答をするのは実は相当勇気のいることである。「記者を喜ばせてやろう」「自分にはちゃんとした意見があることを示さなければ」というような安易な心が働いて、余計なことを言ってしまうのが私たち凡人である。しかし、陛下の御心はそのような小賢しい配慮からは遥か遠いところにあり、無言をもって歴史の断絶を回避せられた。
[『祖国と青年』平成11年7月号]

昭和天皇の戦争責任論が再燃しても、政府がまったく頼りにならないなかで「昭和天皇の御心を承け継ぐ」と宣言することは、戦争責任という問題を承け継ぐことにもなる。

引き受けるのと、切り離すのと、どちらが楽かと言えば、もちろん切り離す方が楽なのだ。ドイツのワイツゼッカー大統領のように「時代が変わったのだから、私には戦争責任は関係ありません」というやり方もあり得た。

だが、陛下は安易な道を選ばれなかった。

 昭和から平成への御代替りは「継承」

世界中から164カ国、30の国際機関の代表者が集った昭和天皇の御大喪(ごたいそう)「葬場殿の儀」において、陛下は切々と心をこめて、昭和天皇のための御誄(おんるい)を読み上げられた。

▲葬場が設営された新宿御苑 出典:ウィキメディア・コモンズ

明仁(あきひと)謹んで御父昭和天皇の御霊(みたま)に申し上げます。

崩御あそばされてより、哀痛は尽きることなく、温容はまのあたりに存あってひとときも忘れることができません。櫬殿(しんでん)に、また殯宮(ひんきゅう)におまつり申し上げ、霊前にぬかずいて涙すること四十余日、無常の時は流れて、はや斂葬(れんそう)の日を迎え、轜車(じしゃ)にしたがって、今ここにまいりました。

顧みれば、さきに御病あつくなられるや、御平癒(ごへいゆ)を祈るあまたの人々の真心が国の内外から寄せられました。今また葬儀にあたり、国内各界の代表はもとより、世界各国、国際機関を代表する人々が集い、おわかれのかなしみを共にいたしております。

皇位に存られること六十有余年、ひたすら国民の幸福と世界の平和を祈念され、未曽有の昭和激動の時代を、国民と苦楽を共にしつつ歩まれた御姿 は、永く人々の胸に生き続けることと存じます。

こよなく慈しまれた山川(さんせん)に、草木(そうもく)に、春の色はようやくかえろうとするこのとき、空しく幽明を隔てて、今を思い、昔をしのび、追慕の情はいよいよ切なるものがあります。誠にかなしみの極みであります。

上皇陛下が昭和天皇の戦争責任について、あるともないともお答えにならなかったことを「逃げた」と評した論者もいた。

しかし陛下はお逃げになったのではない。断絶を回避されたのである。昭和から平成への御代替りは断絶ではなく、継承であったのだ。 

▲「断絶」ではなく「継承」 イメージ:PIXTA