大手3社で最初に値下げをするのはNTTドコモ?

そして菅氏が首相に就任。国のトップとなった氏の要請によって、大手キャリアの通信費はいよいよ安くなるのだろうか。KDDIの高橋誠社長も「政府からの要請を真摯に受け止め対応を検討していきたい」ともコメントしているが……。

「大手3社の社長が、先程も申し上げた『面従腹背』の姿勢を貫きたい気持ちは変わらないと思いますが、それは菅総理には通用しそうにありません。KDDIのほか、NTTやソフトバンクの経営陣も、菅総理の意見に理解を示す発言をしています。とはいえ、表向きは民間事業であり、値下げの“強制”はできません。一番確実な方法はNTTに“自主的に”下げさせることです」

NTTは先般、ドコモを完全子会社化したが、政府に3分の1以上の株式保有を義務付けられた特殊法人であり、役員人事権を政府に握られている。NTTの澤田社長は、自身のポジションを安泰にするためにも「菅氏の機嫌を損ねることなく、ドコモの値下げを確実に実現する」と考えたことは容易に想像される。

なぜなら昨年のNTT人事で、新規参入業者の楽天に非協力的と受け止められた鵜浦前社長が、政府によって更迭させられたからだ。そして大手3社のうちの1社が値下げに動けば、他の2社もドミノ倒しのように追随する。3社のうち一番動きが早そうなのはNTTだ。

▲大手3社で最初に値下げをするのはNTTドコモ? イメージ:PIXTA

また、3社の寡占状態に風穴を開けようとする楽天も、スマホ料金値下げの鍵だ。データ使い放題で1年無料をうたう「Rakuten UN-LIMIT」など、革新的なプランを打ち出している。一方、基地局工事が予定通り進まず、総務省から再三にわたって行政指導を受けるなど問題点も指摘されている。山田氏は「楽天を支援すべき」と言う。

政治のタブー「電波配分の見直し」ができるか

新規参入した楽天は、大手3社と比べて、使い勝手の悪い高周波の電波を割り当てられているが、これに使い勝手の良い低周波のプラチナバンドと呼ばれる周波数を割り当てることで、健全な競争環境が作られる。山田氏によれば、実は日本には使われていない優良電波が眠っているのだという。その正体は放送業界に割り当てられた電波で、その総量は大手3社が利用する電波の総量と同じくらい、とのことだ。

「これを放送業界から引っぺがし、通信業界に割り当てることで、楽天にもスピーディーかつ低コストで、全国に通信基地局を建設する道が開かれます」

この電波配分の問題は、長らくメディアでもタブーとされていたという。

「新聞社では10月4日付けの日本経済新聞の社説が、初めてこの点に触れました。欧米先進国でも同様な取り組みが進んでいますが、通信・放送業界で寡占・利権・癒着が定着している日本では、全くといってよいほど議論が行われておらず、放送会社の親会社である新聞社も、全く触れてきませんでした。

それは最強の政治団体である、民放連が反対しているからです。海外より早く、電波を放送から通信に移せる技術が、日本にあるにも関わらず、放送業界の有力者が、衰退産業である放送業界を守るため、政治家に圧力をかけ続けてきました。

電波配分の見直しは、郵政大臣や総理大臣を経験した田中角栄が、50年以上前に築き、現在まで続く県単位の放送免許制度の見直しや、放送利権の破壊につながります。大きな政治問題に発展する、電波割り当ての見直しを実現できるか。菅政権の下での、本格的な携帯料金値下げの実現を占う試金石になると思います」

菅氏が首相に就任してから加速する「値下げ」の動き。われわれ消費者にとっては、ありがたい限りだが、一方「行政が、民間企業の経営方針に口出しするのか」という批判もある。先程も「表向きは民間事業であり、値下げの“強制”はできません」という話があったが、山田氏はそれを踏まえて「正義は菅氏にある」と語る。

忘れてはならないのは、そもそも各社が飯の種としている“電波”は、国が管理する公共的な財産だということ。それが独占されている現状はおかしい。

「日本では、海外の先進国と異なり電波オークションを行わず、政治家や官僚による恣意的な電波行政が行われ、通信企業との間で癒着や利権構造を生み出してきました。一般の産業のように、企業が自らの判断でビジネスリスクを取りながら、事業拡大を目指すのとは異なる、不健全な環境で携帯ビジネスが展開されてきたことを、まず理解する必要があります。

消費者の利益が顧みられることは少なく、役所や通信事業者の都合優先で携帯ビジネスが展開されてきました。加えてイーモバイルをソフトバンクが買収したことで、3社の寡占体制が生まれ、3社のカルテル的な事業運営の下で消費者の囲い込みが行われ、海外に比べて倍近い料金を強いられてきました。高止まりする日本の携帯料金の値下げを拒む、岩盤規制を明らかにすることが、批判の本質であるべきです」