手書きで約10万ページに及ぶ「ミトロヒン文書」は、二十世紀の最重要史料のひとつ。持ち出しが見つかれば死刑になる、そんな危険を12年間も冒し続けたのはなぜなのか。評論家・江崎道朗氏の調査担当を務める山内智恵子氏が、ミトロヒンの生い立ちやKGBで経験した出来事などに迫ります。

※本記事は、江崎道朗:監修/山内智恵子:著『ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

浮き彫りになった非合法諜報員の実態

ミトロヒン文書は、アーキヴィスト(文書と情報の管理の専門家)で、文書管理責任者でもあったワシリー・ミトロヒンが、KGB第一総局の文書庫が所蔵する、1918年以降1980年代初期までの文書から写し取った資料です。

第一総局文書庫には約30万冊の文書ファイルがあり、その中から12年間ほぼ毎日、筆写し続けたので、手書きで約10万ページに達します。

ミトロヒンは、特に非合法諜報員を使った作戦に関する文書を重視して筆写したため、非合法駐在所・非合法諜報員と彼らの作戦の情報が多いことが、ミトロヒン文書の特徴です。

第一総局というのは、KGBの中で対外情報活動を担当する部門です。部門名の英訳“First Chief Directorate”の頭文字を取ってFCDと表記されることもあります。

ミトロヒンは機密文書を写した紙を、ほとんど毎日、密かに持ち出してタイプで清書し、整理して膨大な文書にまとめあげました。見つかれば自分が非公開裁判で確実に死刑になるだけでなく、家族全員が逮捕・流刑を免れません。

そんな危険を12年間も冒し続けたのはなぜなのか。ミトロヒンの生い立ちと、KGBでミトロヒンが経験した出来事を見ていきます。

親族の安全のため出生地を隠していたミトロヒン

ミトロヒンは1922年3月3日、リャザン州ユラソヴォ村で生まれました。実は出生地がどこかということが、ミトロヒンとアンドルーが書いたミトロヒン文書解説書の第1巻では伏せられていたのですが、6年後に刊行された第2巻には書かれていました。

ミトロヒンの身内は、誰もユラソヴォに残っていないそうですが、第1巻刊行のときは、誰にも迷惑がかからないように用心していたのでしょう。

ウッドロー・ウィルソン国際学術センターのウェブサイトにあるミトロヒンの略歴によると、通常の学校教育を終えたあと、砲兵学校、アーキヴィスト訓練校である歴史公文書研究所、ハリコフ上級法律学校を経て、1944年に軍検察に就職します〔ソ連には一般の検察のほか、軍の中にも検察がありました〕

それから、KGBの前身の情報機関MGBにスカウトされ、モスクワの上級外交学校で3年間、海外諜報に備えた訓練を受けています。

KGBは、自分から志願してくる人間は絶対に入れず、KGBの方から適性のある人物に目をつけてスカウトするのが普通だといいます。

ミトロヒンが具体的にどんな訓練を受けたのか、アンドルーとミトロヒンによる解説書には書いてありませんでしたが、第2次世界大戦中の、ある特殊作戦要員の訓練では、爆発物の作り方と使い方、時限装置の作り方と使い方、書き終わると白紙にしか見えなくなる秘密のインクの作り方と使い方〔ウォッカとブドウ糖で作るので、いざというときは飲んでしまえば証拠隠滅〕、無線機の組み立てと通信、射撃に格闘訓練、パラシュート降下訓練などがマンツーマンで行われたようです。

あとで述べるように、ミトロヒンは諜報員として中東での作戦に送り出されていますから、諜報技術の訓練を受けているはずです。

訓練を終えたミトロヒンは、1948年に情報委員会(KI)に配属されました。情報委員会というのは、MGBと軍情報部とを統合した情報機関で、1947年10月から1951年11月まで存在しました。統一的な情報機関を作る試みだったのですが、うまくいかなかったようで、結局元のように分離します。

KGBという名称になったのは1954年からですが、全部正確に書き分けると、かえって分かりにくくなってしまいそうなので、この記事の中ではKGBに統一して話を進めます。