江戸時代の男たちが遊んだ場所は吉原だけじゃなかった! 当時の歓楽街があった場所や様子を、作家で江戸風俗研究家でもある永井義男氏が紹介する。江戸時代の谷中には「いろは茶屋」という岡場所があったという。
「江戸の三富」のひとつだった感応寺(現天王寺)
台東区谷中七丁目の天王寺は天保四年(1833年)の改称で、それ以前は感応寺といった。
感応寺は「江戸の三富」のひとつで、湯島天神、目黒不動とともに富籤(とみくじ)の興行で有名である。図1は、富籤の抽選の光景。
抽選がおこなわれる寺社の境内には、人々がつめかけ大混雑した。富籤は娯楽のひとつだった。
しかし、富籤は天保の改革で禁止された。
天王寺は五重塔で知られ、図2に、その様子が描かれている。
昭和三十二年(1957年)、不倫の男女が焼身自殺を図り、その火が燃え広がって五重塔は焼け落ちた。
現在、天王寺に五重塔はない。
門前にあった「いろは茶屋」という岡場所
さて、天王寺(感応寺)の門前に「いろは茶屋」という岡場所があった。もちろん、図2には岡場所の光景は見えない。
この一風変わった名称について、茶屋が四十八軒あり、いろは四十八文字にちなんだという俗説ある。
戯作『いろは雛形』(文政三年)によると、門前に十軒以上の料理茶屋、六十軒以上の水茶屋が軒を並べ、一大歓楽街となっていた。
女郎屋は、揚代が昼間は六百文、夜は四百文の四六見世が多かった。
しかし、天保の改革前の風俗を記した『寛天見聞記』に――
今は天王寺といふも、前は感応寺といふ日蓮宗也。門前に、昔よりいろは茶屋とて、五六軒の娼家あり。今はさかりにして家数も増し、娼婦の値は五六なり。
――とあり、昔から娼家、つまり女郎屋が五~六軒あったが、いまはもっと増えている、と。
揚代は昼間が六百文、夜が五百文という。いわば五六見世である。
文政から天保にかけて、夜の揚代は値上げしたようだ。前出の『いろは雛形』は、狂歌を引用して、
もてなしもいろはの茶やの名にめてゝ
四十八手をつくす多おや女
とある。「多おや女」は「手弱女(たおやめ)」のこと。
こんな狂歌を知ると、当時の男は、いろは茶屋への期待を高めたに違いない。