江戸時代の男たちが遊んだ場所は吉原だけじゃなかった! 当時の歓楽街があった場所や様子を、作家で江戸風俗研究家でもある永井義男氏が紹介する。現在も台東区柳橋に地名を残す柳橋は、幕末から明治にかけ、この橋一帯が“男の歓楽街”として繁栄していたようだ。ここでは柳橋の芸者にクローズアップしてみよう。

芸者が主役だった柳橋

『柳橋新誌』(成島柳北:著/明治4年)は、幕末から明治初期にかけての柳橋の風俗を描いている。

著者の成島柳北(なるしまりゅうほく)は、幕府儒官の家に生まれ、若いころ、柳橋の芸者遊びに耽溺した。

柳北は『柳橋新誌』で、柳橋の芸者についてこう記している。なお、原文は漢文なので、筆者が要約して、現代語訳した――

 柳橋の繁華は芸者ゆえである。
 吉原や品川にも芸者はいるが、あくまで遊女が主役であり、芸者は脇役に過ぎない。
 ところが、柳橋では芸者が主役である。

また、同書で柳北は、芸者について――

 往々色を売るものあり。

と、客の男と寝ると、はっきり述べている。

柳北自身、柳橋の芸者と寝ていた。

▲図4『東京美女ぞろひ 柳橋きんし』(国貞/明治元年) 国会図書館:蔵

図4は、幕末の頃の柳橋の芸者である。いかにも婀娜(あだ)っぽい。

明治になると、薩長出身の新政府高官が新橋で芸者遊びをしたのに対し、旧幕臣は柳橋をひいきにした。

このため、柳橋と新橋はなにかにつけて比較され、芸者はおたがいにライバル視するようになった。

高官を絶句させた芸者の一言

図5は、明治初期の柳橋の芸者である。

▲図5『柳橋柳や小清・柳はしいせや千吉』(明治14年) 国会図書館:蔵

『柳橋新誌』に、明治になってからの、次のようなエピソードが記されている――

元は公家で、いまは明治政府の高官となった者が柳橋で酒宴をしていた。
芸者のひとりが無邪気に質問した。

「お公家さんは京都にいるとき、カルタ作りを仕事にしていたそうですね。知りませんでした。殿下も、カルタを作っていたのですか」

その高官はしばし絶句。
ようやく、答えた。

「昔はみな閑だったので、遊びでカルタを作っていた者もいたかもしれない。しかし、国家多事のいま、そんなことをする者はいない」

京都の貧窮した公家は、内職にカルタの絵付けなどをしていたのである。

明治になり、公家は高官となった。

そんな「成り上がり」が、柳橋の芸者にぎゃふんと言わされたわけである。

旧幕臣だった著者の成島柳北にとって、なんとも痛快だったに違いない。

『江戸の男の歓楽街』は、次回11/11(水)更新予定です。お楽しみに!!

○今に残る柳橋の痕跡

神田川
浅草橋からの眺め。年季の入った屋形舟が浮かぶ。「吉原通い」もここから出発したのであろうか(編集部撮影)
JR浅草橋駅付近
駅の周辺が柳橋エリアとなる。飲み屋や夜の店も多く、かつての歓楽街の面影を残す(編集部撮影)