江戸時代の男たちが遊んだ場所は吉原だけじゃなかった! 当時の歓楽街があった場所や様子を、作家で江戸風俗研究家でもある永井義男氏が紹介する。現在も台東区柳橋に地名を残す柳橋は、幕末から明治にかけ、この橋一帯が“男の歓楽街”として繁栄していたようだ。ここでは柳橋の芸者にクローズアップしてみよう。
芸者が主役だった柳橋
『柳橋新誌』(成島柳北:著/明治4年)は、幕末から明治初期にかけての柳橋の風俗を描いている。
著者の成島柳北(なるしまりゅうほく)は、幕府儒官の家に生まれ、若いころ、柳橋の芸者遊びに耽溺した。
柳北は『柳橋新誌』で、柳橋の芸者についてこう記している。なお、原文は漢文なので、筆者が要約して、現代語訳した――
柳橋の繁華は芸者ゆえである。
吉原や品川にも芸者はいるが、あくまで遊女が主役であり、芸者は脇役に過ぎない。
ところが、柳橋では芸者が主役である。
また、同書で柳北は、芸者について――
往々色を売るものあり。
と、客の男と寝ると、はっきり述べている。
柳北自身、柳橋の芸者と寝ていた。
図4は、幕末の頃の柳橋の芸者である。いかにも婀娜(あだ)っぽい。
明治になると、薩長出身の新政府高官が新橋で芸者遊びをしたのに対し、旧幕臣は柳橋をひいきにした。
このため、柳橋と新橋はなにかにつけて比較され、芸者はおたがいにライバル視するようになった。
高官を絶句させた芸者の一言
図5は、明治初期の柳橋の芸者である。
『柳橋新誌』に、明治になってからの、次のようなエピソードが記されている――
元は公家で、いまは明治政府の高官となった者が柳橋で酒宴をしていた。
芸者のひとりが無邪気に質問した。
「お公家さんは京都にいるとき、カルタ作りを仕事にしていたそうですね。知りませんでした。殿下も、カルタを作っていたのですか」
その高官はしばし絶句。
ようやく、答えた。
「昔はみな閑だったので、遊びでカルタを作っていた者もいたかもしれない。しかし、国家多事のいま、そんなことをする者はいない」
京都の貧窮した公家は、内職にカルタの絵付けなどをしていたのである。
明治になり、公家は高官となった。
そんな「成り上がり」が、柳橋の芸者にぎゃふんと言わされたわけである。
旧幕臣だった著者の成島柳北にとって、なんとも痛快だったに違いない。