江戸時代の男たちが遊んだ場所は吉原だけじゃなかった! 当時の歓楽街があった場所や様子を、作家で江戸風俗研究家でもある永井義男氏が紹介する。現在も台東区柳橋に地名を残す柳橋は、幕末から明治にかけ、この橋一帯が“男の歓楽街”として繁栄していたようだ。

 神田川の両岸にあった歓楽街

柳橋はもともと、神田川が隅田川に流れ出る河口付近に架かっていた橋の名称である。いつしか、柳橋は一帯をさす俗称となった。

幕末から明治にかけ、柳橋は男の歓楽街として繁栄した。そのころ、神田川の両岸が歓楽街だった。

しかし現在は、神田川の北岸は台東区柳橋一丁目、南岸は中央区東日本橋二丁目になり、地名は北岸にしか残っていない。

▲図1『絵本江戸土産』国会図書館:蔵

図1で、位置関係がよくわかる。

図の左下から右上に流れているのが大川(隅田川)。右上の大きな橋は両国橋である。

図の下の小さな川が神田川で、河口付近に架かった橋が柳橋。つまり、一帯が柳橋である。

図中にこうある――

神田川の末流、既に大川に出ずる方に架けたるを柳橋という。この辺、料理屋多く……

柳橋は、水上交通の要衝ともいうべき位置にあったため、船宿が多かった。

男たちは柳橋の船宿で、屋根舟や猪牙舟(ちょきぶね)を雇い、吉原や深川に出かけたのである。

とくに、柳橋から舟に乗り、隅田川をさかのぼって、山谷堀で舟をおりる。その後、駕籠か徒歩で日本堤を行き、吉原に至るというのは、いわゆる「吉原通い」として知られた。

交通の要衝で人々の出入りが多かったことから、柳橋には料理屋が次々と開業した。

とくに、万八楼は有名である。多くの文人墨客が利用し、著作などで店名に言及したことから、ますます有名になった。

▲図2『江戸高名会亭尽』国会図書館:蔵
▲図3『江戸高名会亭尽』国会図書館:蔵

図2と3は、柳橋の料理屋である。

船宿と料理屋が集まっていたことから、柳橋には芸者も多かった。料理屋はもちろん、船宿の二階座敷でも、芸者を呼んで宴席をもうけることができたからだ。